同じショートでトップバッター。しかもリーグの盗塁王。比べるなと言われても比べないわけにはいかない。
 ライオンズの松井稼頭央が、このシリーズではじめて笑みを見せたのは3戦目が終わった後だった。
 5回表、1死満塁のチャンスで戸叶尚のストレートを左中間に叩いた。走者一掃のタイムリー2ベース。松井らしく初球を狙ったものだった。
「これだけチャンスが回ってきていながら、今までことごとく僕が潰していたでしょう。だから外野フライでも何でもいいと思っていました。今までの分を取り戻したとは言えないけど、これでやっと仲間入りができました」
 ここで、記者から質問が飛ぶ。
――石井と比較されたりして、プレッシャーはありませんでしたか?
「いや、そんなものは最初からないです。失敗しても思いっ切りいくのが僕の持ち味ですから……」
 人を食っているわけではない。接点のないセリフはいかにも彼らしいものだった。

 厳しい言い方をすれば、松井の足とバットは期待にかなうものではなかった。石井の活躍を目のあたりにしたライオンズファンは、松井に物足りなさを感じていたに違いない。
 初戦の初回、石井が絶妙のバント安打を決めたのに対し、松井は野村弘樹の初球をセンターに打ち上げた。無造作に、とは言わないまでも、あまりにも無頓着過ぎて、企みのようなものは全く感じられなかった。

 初戦、4打数1安打、盗塁ゼロ。3番に入った2戦目は4打数ノーヒット、もちろん盗塁ゼロ。三振とフライが目立ち、持ち前の足を活かしたクロスプレーはほとんど見られなかった。
 2戦目、初回無死一、三塁の先制機はショートフライを打ち上げた。チームが初勝利をあげた3戦目も、3打席目までは四球を一つ奪っただけで、ヒットは一本もなかった。3回1死満塁の場面では、あろうことか三振に切ってとられた。チームのアクセル役を果たすべき男が、要所要所で急ブレーキを踏み続けた。

 スワローズとの前年の日本シリーズ、2割7分3厘、打点1、盗塁1という結果に終わり、“戦犯”と呼ばれた男が、再び失敗を犯そうとしていた。運動神経や反射神経に頼り切っただけの退屈な打席を重ねていた。

 周知のように松井は“つくられた左打者”である。スイッチ・ヒッターに転向して、まだ3年しかたっていない。短期決戦の日本シリーズでは、相手ピッチャーは徹底して弱点をついてくる。“つくられた左打者”は例外なくインハイに弱点を抱えているため、情け容赦なく、そこを攻め立てる。
 そうした攻めに対する対策が果たして充分にできていただろうか。今すぐ解決できる問題ではないにしろ、投手の企みを先読みして打席に入るのと、白紙の状態でピッチャーに相対するのとでは、言葉で言い尽くせないほど大きな差がある。

 シリーズ全6戦の成績は打率2割8厘、2盗塁。松井の足とバットが光ったのは、昨年の日本シリーズに続いて、ほんの一瞬だった。天才がスーパースターになる瞬間は、ついに訪れなかった。ワールドクラスへの飛躍の期待は再び、来年に持ち越された。

 それでも、まだまだこの男にこだわり続けたい。三遊間、深い位置に飛んだゴロをさばく時の姿を見たら、やはり居ても立ってもいられない。最短距離で打球方向に走る。ゴロを捕る。フォームを起こす。スローイングする。この一連の動作を彼はワンタイムの中で処理することができるのだ。しかも単にしなやかであるというだけではなく、瞬発力があって力強い。加えて強肩、俊足。依然としてこの23歳が、島国が生み出した掛けがえのない才能であることにかわりはないのだ。

 彼の最高到達点が奈辺にあるのか、それは誰にも分からない。本人すら分かっていないに違いない。
 ともあれ、10月23日生まれの彼は、毎年日本シリーズ期間中に一つ年をとる。比類なき才能にあふれる者、そう簡単に全貌を明らかにしないとは知りつつも、そう遠くないうちにその片鱗くらいはなぞってみたい。
(おわり)

<この原稿は『Number』(文藝春秋)1998年11月19日号に掲載されたものです>
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