今季のプロ野球は福岡ソフトバンクの8年ぶり5度目の日本一で幕を閉じた。過去、レギュラーシーズンを何度も1位通過しながら、プレーオフやクライマックスシリーズ(CS)ではことごとく敗退。「勝負弱い」とのレッテルを貼られたチームは今季、交流戦、リーグ戦、CS、日本シリーズを完全制覇し、ようやく「最強」の称号を手中にした。ホークスを長年、主砲として牽引してきた松中信彦も、これでホッとしたことだろう。ベテランの苦悩の道のりを二宮清純が取材した。
(写真:日本シリーズ第7戦ではヒザの骨折明けながら二塁から劇走をみせ、貴重な追加点を奪った)
 打った瞬間、バットをポーンと放り投げ、両手を高々と突き上げた。興奮の余韻を楽しむようにゆっくりとダイヤモンドを一周する大柄のスラッガーの背に歓声が降り注ぐ。スタンディング・オベーションの中のホームインは、まるで凱旋だった。11月の最初の金曜日の夜、千両役者という言葉は、彼だけのためにあった。

 3対2と1点リードの8回裏、2死満塁のチャンスで福岡ソフトバンクホークスの秋山幸二監督は松中信彦を代打に指名した。トランプで言えばジョーカー、とっておきの切り札だ。
 埼玉西武ライオンズのピッチャーはルーキーながらレギュラーシーズンで5勝22セーブをマークした牧田和久。緩急を操る技巧派のサブマリンだ。
 代打の鉄則はファースト・ストライクを狙うこと。一振りで仕留めなければ返り討ちに遭う。松中は初球の甘いスライダーを見逃さなかった。

 快音を発した打球はライトスタンド中段へ。7対2。勝利を決定付けるとともに短期決戦の流れを引き寄せる値千金のグランドスラムだった。
 試合後、お立ち台に立った37歳は顔をくしゃくしゃにして言った。
「自分が一番ビックリしています。かなり興奮しています。これまで(クライマックスシリーズでは)ずっと悔しい思いばっかりしてきました。突破しないとうっぷんは晴れない」

 パ・リーグの日本シリーズ進出チームを決めるクライマックスシリーズ(CS)・ファイナルステージ第2戦。リーグチャンピオンのソフトバンクに1勝のアドバンテージがあるとはいえ、3位から勝ち上がり、勢いに乗る西武が1つでも勝てば、シリーズの行方は混沌としていただろう。
 それでなくてもホークスは短期決戦に弱いのだ。昨季も「今年はやらんといかんばい!」をスローガンに掲げてリーグ制覇を果たしたものの、CSでは千葉ロッテに“下剋上”を許した。

 2003年に阪神を破って日本一になって以降、昨季まで7年間、ホークスは日本一の座から遠ざかっている。“A級戦犯”として名指しされてきたのが松中だった。04年以降のレギュラーシーズンのチーム成績と松中のプレーオフ、CSでの打撃成績は次のとおり。
 04年=1位(打率1割5厘、1本塁打、1打点)
 05年=1位(打率6分3厘、0本塁打、1打点)
 06年=3位(打率3割8分8厘、1本塁打、7打点)
 07年=3位(打率2割3分1厘、1本塁打、4打点)
 08年=6位
 09年=3位(出場なし)
 10年=1位(打率1割6分7厘、0本塁打、0打点)

「オマエがいる間は日本シリーズに行けない!」
「さっさと引退しろ!」
 プロ野球にヤジはつきものとはいえ、耳に入れば心が痛む。松中にとってこの7年間は、文字どおり針のムシロに座らされているようなものだった。
 9月には死球を受け、右ヒザを骨折した。全治4週間の診断でCS出場も危ぶまれていた。

 それだけに牧田から放ったグランドスラムはCSの悪夢を振り払うとともに、負の呪縛から自らをも解放するものだった。
「見事や見事」
 指揮官もベテランに賛辞を惜しまなかった。
 松中の一発で王手をかけたソフトバンクは西武に3タテをくらわし、相撲でいうところの“電車道”で日本シリーズ進出を決めた。

 人生には一度や二度、勝負を賭ける舞台がある。松中にとってのそれは96年のアトランタ五輪だった。この時、松中22歳。熊本の八代一高から社会人野球の新日鐵君津に進んだ若きスラッガーに惚れ込んだのは当時の日本代表監督・川島勝司だった。
(写真:「ボールが長くひっつく」とバットにはホワイトアッシュを使用)

 川島は日本楽器(ヤマハ)の監督として3度も都市対抗野球を制したアマチュア球界を代表する名将で、同五輪では初制覇(84年ロサンゼルス五輪は公開競技での金)の期待が高まっていた。
 川島は松中のどこに惚れたのか。
「驚いたのはセンターから左、左中間方向への打球。つまり逆方向への打球が伸びるんです。これはアウトコースをしっかり叩けている証拠。当時、アウトコースのボールを長打にできるのはアマチュアでは彼くらいでした。五輪で4番を任せたいと思いましたね」

 日本の出だしは散々だった。予選リーグを1勝3敗でスタートし、最後のイタリア戦に勝って、かろうじて決勝トーナメントに駒を進めた。
 エンジンがかかったのはここからだ。後にメジャーリーグで活躍するジェフ・ウィーバー、トロイ・グロースらを擁する米国を11対2で退け、金メダルを懸けてキューバと対戦する。当時のキューバはアマチュアでは頭ひとつ、いや二つも三つも抜けた存在であり、バルセロナ五輪からの連覇を狙っていた。

 いかにキューバが破格のチームだったか。五輪前、スポーツ誌の『Number』(394 号/96年6月20日号)で私はキューバを次のように紹介している。
<キューバ打線を目のあたりにしたことのない者は、バリバリのメジャーリーガーが金属バットを持って打席に立っているシーンを想像すればよい。
 タイプ的には3番のオマール・リナレスはレッズのバリー・ラーキン、4番のオレステス・キンデランはインディアンズのアルバート・ベル、5番のアントニオ・パチェーコはマーリンズのゲーリー・シェフィールドに近い、というのが筆者の印象である>

 やはりキューバは強かった。初回、いきなりリナレス、キンデランの連続ホームランが飛び出し、日本は3点のビハインド。2回にもルイス・ウラシアのホームランなどで3点を追加された。
 2対6で迎えた5回表、2死満塁で打席に入ったのが4番の松中だった。キューバの先発はエース格のオマール・ルイス。3球目の外角スライダーを左中間スタンドに運んだ。
 起死回生のグランドスラム。6対6。ブレーブスの本拠地フルトン・カウンティスタジアムに翻った無数の日の丸を、私は未だに忘れない。

 結局このゲーム、13対9でキューバが打ち勝つのだが、松中のホームランが飛び出した5回は五輪史上、日本が最も金メダルに近づいた瞬間だった。
 振り返って川島は語る。
「松中のあのホームランは打った瞬間にそれと分かる会心の当たりでした。外角のボールを、きれいなライナーで左中間に叩き込んだ。その瞬間、体中が総毛立つ感じがしました。長い野球人生で、あれほど感動し、興奮したホームランはありません」

 この試合で先発した杉浦正則も、思わずベンチから飛び出した。
「まさか入るとは思っていなかったので、最後は“入れ!”と叫んでいましたよ。今でも当時のことをメンバーと振り返ると“あの時は鳥肌が立ったよね”という話になりますね」
 キューバ戦でのホームランは最強の敵に一泡吹かせただけでなく、自らの運命をも変えた。
「あれで僕の人生はガラッと変わりました。あのホームランがなかったら、僕はドラフトにかかっていなかったでしょう。その意味ではプロへの道がパッと開けた一発でした」

 松中がこう語るのも無理はない。日本代表の4番はプロでは大成しない――。当時、これがプロのスカウトたちの常套句だった。
 実例をあげよう。
 中島輝士(プリンスホテル−日本ハム−近鉄)。88年ソウル五輪の4番。同年ドラフト1位。実働8年。通算453安打、52本塁打、225打点。打率2割5分1厘。
 住吉義則(プリンスホテル−日本ハム−ロッテ)。90年世界選手権の4番。同年ドラフト1位。実働3年。通算7安打、0本塁打、2打点。通算打率1割5分9厘。
 丹波健二(東芝−ロッテ)。91年五輪アジア予選の4番。同年ドラフト3位。実働5年。通算9安打、1本塁打、4打点。通算打率1割4分3厘。

 なぜ社会人の4番は大成しないのか。原因は金属バットにあった。プロで使用する木製バットと比べた場合、社会人仕様の金属バットはスイートスポットが広く、反発力もある。極端な話、バットに当たりさえすればヒットになっていた。
 翻って木製バットの場合、きちんとしたフォーム、スイングで打球をとらえなければボールは飛ばない。専門的に言えば外からバットの出るドアスイングを内側から出るインサイドアウトに矯正しなければならないのだ。しかし、そこが難しい。プロのスカウトが社会人の大砲を敬遠する理由がそこにあった。

 しかし、松中が見舞ったキューバ戦でのホームランは、外の変化球を左中間方向へ運ぶという技ありの一発。熊本出身の松中獲得へ向け、7年前に本拠地を福岡に移したホークスが動いた。同年のドラフトで、松中はホークスを逆指名(2位)し、念願のプロ入りを果たした。

(後編へつづく)

<この原稿は2011年10月26日号『週刊現代』に掲載された内容です>