ノンフィクション作家・最相葉月さんの本を読むまで「絶対音感」なる言葉の意味について詳しくは知らなかった。要するに他の音と比較せず、単独で音名を認識できる能力を指す。これを身につけるにはなるべく早く訓練を始めたほうが有利だと言われている。
 球界にもスイング音にこだわるバッターはたくさんいるが、「音の鳴る位置」にまで具体的に言及したのは、私が知る限りにおいては福岡ソフトバンクの内川聖一が初めてだった。
 打率4割1分3厘でパ・リーグのリーディングヒッター。4日の東北楽天戦で右太もも裏を傷めたが、その影響もなく、当たるを幸いとばかりに打ちまくっている。
 気の早い話だが、首位打者を獲れば両リーグでの戴冠となる。これは唯一の達成者、江藤慎一(故人)にまで遡らなければならない。

 そうか、あの江藤以来か。話は少々、横道に逸れるが、少年の頃、画面に映った江藤の姿はウルトラマンに出てくるゴモラよりも怖く感じられた。68年、中日は他球団に先駆けてノースリーブのユニホームを採用した。アナウンサーが江藤に感想を求めると、「こんな女のブラウスみたいな服で野球がやれるか!」と言って丸太棒のような腕でビリビリと引き裂いてしまったのだ。絶句するアナウンサー。凍りつく報道陣。三丁目の夕陽は、まだ西の空に残っていた。

 閑話休題。内川に話を戻そう。耳を澄まさなくてもビューンよりはブンのほうが優れたスイング音であることは理解できる。問題はどこでブンと鳴るかだ。内川は「ボールの当たる位置で音が鳴らなければ意味がない」と考えている。「だってボールが当たらないところで、いくらバットを速く振っても役に立たないじゃないですか」

 では、いったいいつから内川は「音が鳴る位置」にこだわりを抱くようになったのか。法大、本田技研和光でプレーした父・一寛は「物心つく前ではないか」と推測する。「私が高校野球の監督をしていた関係で首がすわらないうちから球場に連れて行き、グラウンドで遊ばせていた。そこでたくさんの“野球の音”を聞いたはず。ここにきっかけがあるような気がします」

 まさに野球版絶対音感。門前の小僧が習わぬ経を読むように、球場の小僧は習わぬ棒振りを覚えたのだ。無形の英才教育とはかくも恐ろしいものである。

<この原稿は11年5月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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