弟から見た兄・アントニオ猪木の姿 ~猪木啓介氏インタビュー~

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 実弟としてアントニオ猪木の人生を見つめてきた猪木啓介さんが今春、『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)を出版した。知られざるプロレス界のレジェンドの姿を当HP編集長・二宮清純と語り合う。

二宮清純: 猪木さんには生前に何度かお話を聞いていますが、啓介さんの著作には新しい発見がいくつもありました。その一つが、プロレスラーになろうと思ったきっかけです。一般的に猪木さんは、ブラジルで砲丸投げの選手として活躍していたところを力道山にスカウトされてプロレスの道に入ったといわれています。ところが、実際は日本にいる頃からプロレスラーになりたいという夢を抱いていたそうですね。

猪木啓介: 兄貴は、陸上競技の長距離選手として活躍していた次男(※注)・快守の影響で、中学時代に砲丸投げを始めました。取り憑かれたように練習をする姿に、私が「砲丸投げって面白い?」と聞くと、兄貴は「五輪に出たいんだ。五輪でメダルを取れば有名になれるだろう。そうしたらプロレスラーになれると思うんだ」と言ったのです。つまり砲丸投げは、プロレスラーになる夢を実現するためのものだったんです。

 

※本対談では猪木啓介さんの著作にのっとり、父・佐次郎さんと母・文子さんの間に生まれた9人を猪木家の「兄弟」として記述している

 

二宮: 猪木さん一家がブラジルに移住したのは1957年。これも一般的には日本での生活が苦しくて、それを打開するために新天地を求めたと受け止められていますが、事実は違ったようですね。

猪木 はい。当時私たちが暮らしていた横浜市鶴見区の家は、大きくて何不自由なく暮らしていました。父は私が生まれた年に亡くなりましたが、食べるものや着るものに困った経験はありません。

 

二宮: それなのになぜブラジルへ?

猪木 当時の日本は移住を推奨していて、ブラジルは「毛布もいらない南国の楽園」などと宣伝されていました。その影響で長兄の寿一が、一旗揚げようという気持ちになったのです。それで寿一が祖父・寿郎や母・文子を説得し、一家の長である祖父が賛成したことで、家族でブラジルへ渡ることになりました。

 

二宮: ところがブラジルに向かう船中で突然寿郎さんが亡くなり、やっとの思いでたどり着いたブラジルでの生活も、想像とはかけ離れた厳しいものだったようですね。

猪木 目的地のコーヒー農園に到着し、案内された住まいには、電気もなければ水道もなく、トイレすらなかった。でも、もっと大変だったのは農園での労働です。主な作業はコーヒー豆の収穫や雑草の除去で、高さ4m以上あるコーヒーの木から実をしごき落として袋詰めします。そしてトラックに積むのですが、1袋が60㎏くらいあって、それを荷台に積み上げていたのが兄貴でした。銃を持った農園の作業監督者が何度も監視にやってくるので、サボることも逃げることもできない。小学生だった私は学校に通わせてもらえましたが、兄貴は仕事の厳しさから中学校をやめざるを得なかった。いわば“奴隷”のような毎日でした。

 

二宮: そうした苦難を経て、猪木さんは力道山と運命の出会いを果たすわけですね。

猪木: そうです。力道山は1958年11月と60年3月の2度にわたってブラジル遠征をしていますが、兄貴が会ったのは2度目の遠征の時です。当時、私たち家族は別の町に移り、日系人農場主が経営する農地に移っていたのですが、「サンパウロにいる力道山が、陸上大会で優勝した日本人を探しているらしい」という話が耳に入ったのです。

 

二宮: それが猪木さんだったわけだ。

猪木 そうです。農園を移ったことで少し生活に余裕が出て、兄貴はまた砲丸投げを始めました。それでサンパウロで行われた大会で優勝し、それが新聞に載った。その記事を力道山が見て、「この男を連れてこい」ということになったようです。

 

二宮: それを機に力道山と一緒に日本に帰国するわけですから、まさに「人生、一寸先はハプニング」(猪木さんの言葉)ですね。

猪木 本当にそうです。でも、あの出会いは偶然ではなく、「プロレスラーになりたい」という兄貴の強い思いが引き寄せたと私は思っています。

 

二宮: 同じ年(1960年)に入門したジャイアント馬場とは対照的に、力道山は猪木さんに対して随分、厳しかったようですね。

猪木 ある意味、ブラジル時代を上回る地獄の日々だったようです。ただ、兄貴はそれを乗り越えたからこそ、強くなれたのだと思います。

 

二宮: それだけ力道山の期待も大きかったのでしょう。大相撲の前田山(元横綱)が力道山を訪問した際に猪木さんを見て、「リキさん、こいつはいい顔しているねえ」と語り、力道山が「そうだろう!?」と笑顔で答えたエピソードは有名です。

猪木 まさに力道山が刺殺された日の出来事ですね。兄貴も「あの一言に救われて、プロレスを続けられた」と言っていました。

 

二宮: 力道山の死後、猪木さんは日本プロレスを離れ、東京プロレスを旗揚げしますが3カ月で倒産。一度、日本プロレスに復帰したものの、団体との対立から除名。その後、新日本プロレスを設立するわけですが、啓介さんが新日本プロレスの営業部員として入社されたきっかけは?

猪木 71年秋、俳優の倍賞美津子さんと兄貴が結婚することになり、その結婚式への出席と日本の大学に通うことを目的に、14年ぶりに帰国しました。その時に兄貴から「新しい団体を旗揚げするから手伝ってくれ」と言われて、72年1月の団体設立時に入社しました。

 

二宮: 新日本プロレス旗揚げ後、猪木さんにはさまざまな出来事が起こります。いわゆる「新宿伊勢丹襲撃事件」(73年11月)の時は、啓介さんも猪木さんと一緒にいたんですよね?

猪木 はい。その日は私の結婚祝いの品を買うために、兄貴と倍賞さんと3人で伊勢丹(東京都新宿区)に出かけていました。買い物が終わり、兄貴から少し離れてタクシー乗り場に向かっていると、人の叫ぶような声が聞こえ、駆け寄ると兄貴が3人の男に襲撃されていたのです。よく見ると、男の1人は「インドの狂虎」と呼ばれたタイガー・ジェット・シンで、1~2分で逃げて行きました。兄貴のシャツは破れ、血も少し滲んでいましたが、本人の意向で病院に行くこともなく、そのままタクシーで兄貴の自宅に戻りました。

 

二宮: この事件は謎が多く、「シンは狂暴なレスラーだ」というイメージをファンに印象づけるための“演出”だったという人もいます。

猪木: その可能性は否定できませんが、兄貴はタクシーの中で何も語らなかったし、きっと聞いても答えなかったでしょう。兄貴は、プロレスのことは身内であっても絶対に打ち明けなかったし、介入することも許しませんでしたから。もし演出だったとすれば、本当の“狂気”を持っていたのはシンではなく、リング外で事件をつくり出した兄貴のほうになりますが(笑)。

 

(詳しいインタビューは10月1日発売の『第三文明』2025年11月号をぜひご覧ください)

猪木啓介(いのき・けいすけ)プロフィール>

1948年、神奈川県横浜市生まれ。57年に一家でブラジルに移民し、5歳上の兄・寛至(アントニオ猪木)らと農園労働に従事する。71年に日本に帰国し、翌年旗揚げされた新日本プロレスに入社。営業を担当する傍ら「アントン・ハイセル」などブラジル関連事業に携わる。闘病生活を送ったアントニオ猪木の晩年を支え、その最期を看取った。著書に『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)がある。

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株式会社第三文明社

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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