日本人メジャーリーガー第1号の奮闘の軌跡 ~村上雅則氏インタビュー~

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 今から61年前、日本人初のメジャーリーガーとして日米の野球史に名を刻んだ村上雅則さん。「マッシー村上」の愛称で親しまれ、現在の日本人メジャーリーガーの活躍の道を開いたその挑戦について、当HP編集長・二宮清純が聞いた。

 

二宮清純: 今年も多くの日本人選手がメジャーリーグで活躍しました。その始まりが、今日ゲストにお迎えした村上さんです。

村上雅則: でも、あまり知られていない(苦笑)。野茂(英雄)君を日本人初のメジャーリーガーだと思っている人が多い。

 

二宮: もちろん野茂さんもパイオニアの1人ですが、第1号は村上さんです。その村上さんの目に、今年の大谷翔平選手(ロサンゼルス・ドジャース)の活躍は、どう映りましたか。

村上: 5月ぐらいから投げるかなと思っていたけど、初登板は6月16日で、しばらくはイニング数も少なかった。何しろ約2年ぶりの実戦登板だったから、大事を取ったんだろうね。でも、球速が故障前よりも出ているのがすごい。

 

二宮: 今年は、カーブを多用しているのも印象的でした。

村上: メジャーではカーブを投げる投手が少ないから、すごく有効なんだよ。

 

二宮: バッターとしての大谷選手は?

村上: ホームランは昨年から1本増えて55本。これはすごいよ。特にパワーが素晴らしい。体勢を崩してバットに当てたようなボールでさえもスタンドに入ってしまう。だけど、打率(2割8分2厘)はもっと上げられると思う。

 

二宮: 大谷選手が年々、活躍の幅を広げている最大の理由は?

村上: 実力は言うまでもないけど、性格の良さも大きいと思う。仲間と冗談を言い合ったりして、きちんとコミュニケーションが取れる。ベンチの中でも明るい感じがするし、性格的にメジャーが合っていたんじゃないかな。

 

二宮: 村上さん自身についてお聞きします。1962年に法政大学第二高校から南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団し、翌年に野球留学生としてメジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のフレズノ・グリズリーズ(1A)へ派遣されました。そこで好成績を挙げたことで、メジャーへの昇格に至ります。でも聞くところによるとプロ野球選手になるつもりはなかったとか。

村上: うん。おやじが厳しい人で、「医者を目指せ」なんて言われていたし、医者は無理でもおやじの仕事(特定郵便局長)を継ぐぐらいはできるかなと、大学に進学するつもりだった。それが南海の監督だった鶴岡(一人)さんが自宅に来て、「ウチへ入ったらアメリカに野球留学させてやる」と言われてね。「えっ、アメリカに行けるの!?」と気持ちがグラついた(笑)。

 

二宮: アメリカに興味があったんですか。

村上: そう。テレビで西部劇なんかをよく見ていてね。何となく憧れていた。今みたいに簡単にアメリカへ行けない時代だったしね。

 

二宮: とは言え、言葉も分からない中で1Aからのスタートです。生活的に厳しいものがあったのでは?

村上: 羽田空港から練習場のあったアリゾナに行ったんだけども、同伴していた通訳が、日本のプロ野球のシーズンが始まるからと帰ってしまった。残されたのは、僕と同じく野球留学に来た南海の後輩新人2人。誰も英語がまともに話せないから、そりゃあ大変だったよ(苦笑)。練習場は砂漠の中。草も木もない赤茶けた砂漠の中に一本道が通っているだけ。午前中から始まった練習は午後2時ぐらいに終わるんだけど、喉が渇いて仕方がないから毎日4本ぐらいコカ・コーラを飲んでいたのを覚えている。

 

二宮: 当初、留学期間は3カ月と言われていたんですよね。

村上: そう。3月10日に渡米して、6月10日に帰国予定だった。それがフレズノでの成績が良かったから、向こうの監督から「もっといていいよ」と言われたんだ。

 

二宮: 手元の資料によれば、1A時代のリリーフでの防御率が1.78ですから、素晴らしい。ちなみに、人種差別のようなものはなかったですか。

村上: あったよ。遠征でバスの一番前の席で寝ていたら、後ろから紙を丸めて投げてくるやつがいた。目を覚まして周りを見渡しても、みんな知らん顔している。それで目をつむるとまた投げてきた。3度目に投げつけられた時に頭にきて、運転手の足元にあったスパナを手に取ったんだ。それで、前から1人ずつ「お前か!」と聞いていったら、みんなおびえた顔で「俺じゃない」と答えてね。結局、誰も名乗り出ずに終わったけど、ここで我慢すればなめられると思ったし、強気でいくしかないと思ったんだよ。

 

二宮: 時代を感じるエピソードです。その後も差別的な行為は続きましたか。

村上: まあ、いろいろあったけど、当時の監督が割と親日家でね。僕がいない時にみんなを集めて、「マッシーのことを“ジャップ”と呼ぶな」とくぎを刺してくれたみたいで、それはすごく助かった。

 

二宮: 1Aで好成績を上げたことで、その年の9月1日にメジャーリーグに昇格しました。1Aからメジャーリーグというのは異例だと思いますが、昇格を告げられた時のことは覚えていますか。

村上: よく覚えているよ。8月の中旬にメジャーのベンチ枠が25人から40人になるから、1Aからも誰か昇格するかもしれないという話があってね。「そんなこともあるんだ」くらいの気持ちでいたら、8月29日に監督から「君が選ばれたから、すぐにニューヨークに行け」と言われた。ジャイアンツは、ニューヨーク・メッツとの試合があったからね。

 

(詳しいインタビューは11月1日発売の『第三文明』2025年12月号をぜひご覧ください)

 

村上雅則(むらかみ・まさのり)プロフィール>

1944年5月6日、山梨県七保村(現・大月市)出身。中学2年秋、反対する父に内緒で野球部に入部。1年足らずだったが頭角を現し、法政大学第二高校に進学した。卒業後は、鶴岡一人監督に誘われて南海ホークス(当時)に入団。翌64年、メジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のフレズノ・グリズリーズ(1A)へ野球留学生として派遣され、好成績を挙げたことで、同年9月にメジャーリーグへ昇格。日本人初のメジャーリーガーとなる。65年もジャイアンツでプレーし、45試合の登板で4勝1敗8セーブの成績を残す。66年に南海に復帰し、その後、阪神、日本ハムでプレー。82年の現役引退後は、日本ハム、福岡ダイエー(当時)、西武のコーチやジャイアンツ極東担当スカウトに就いたほか、解説者や評論家としても活躍。日米通算620試合108勝39セーブ。

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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