第1218回 セ 激動の時代をリードした東映の残党たち
白仁天に続いて張本勲。東映フライヤーズの生き証人が、またひとり鬼籍に入った。
1946年に創設されたセネタースの流れを汲む東映フライヤーズが、名将水原茂のもとで初のリーグ優勝、日本一を達成したのは62年。シーズンMVPは打率3割3分3厘、31本塁打、99打点、23盗塁の張本だった。
そしてエースの土橋正幸とともにローテーションを支えたのが、高校を中退して入団した尾崎行雄。いきなり20勝をあげ「怪童」の異名をほしいままにした。
浪商の先輩にあたる張本について生前、尾崎はこう語っていた。「やけどの影響で右手の小指と薬指が癒着していた張本さんは、グリップに右手をうまく固定することができない。そのため皆が寝静まった深夜、ビール瓶を割り、その破片で小指がしっくりくるようグリップエンドを真っ四角に削っていた。その姿は鬼気迫るものがあった」。
ベテラン捕手の山本八郎も浪商出身。血の気の多さから“ケンカ八郎”と呼ばれた。引退後は鴨川シーワールドでシャチの飼育係を務めていたが、「シャチが言うことを聞かないので殴ったところクビになった」という逸話を昔、東映ファンの放送作家・高田文夫から聞いた。「シャチがサインを間違えたらしい」。
65年に入団した大杉勝男も腕っぷしの強さには定評があった。西鉄のカール・ボレスを右フック一発でKOしたシーンは今も語り草だ。たまたまこのシーンをニュースで目にしたというボクシング三迫ジム・三迫仁志会長は生前、真顔で、こう語っていた。「大杉ならヘビー級でタイトルが獲れたな」。
67年に入団した大下剛史は小兵ながら気が強く、伊東キャンプで芸者衆にチヤホヤされながらノックを打つ水原に腹を立て、「オヤジにボールを投げ返してやった。するとオヤジの顔色がサッと変わったよ」。
こうした個性派集団の物語も、やがて終焉を迎える。経営権が日拓ホーム、日本ハムへと移り、選手たちはディアスポラの憂き目を見る。
だが、彼らが真価を発揮するのは、そこからだった。75年、広島に移籍した大下はリードオフマンとしてチームを牽引し、球団創設26年目にしての初優勝に貢献した。「クレバーかつファイター。ああいう男が欲しい」。獲得に動いたジョー・ルーツの目に狂いはなかった。
翌76年、前年、球団史上初の最下位に沈んだ長嶋巨人は張本を迎え、王貞治とのOH砲の結成により息を吹き返す。障害の残る右手を覆い隠す黒い手袋に包まれたグリップエンドが、バットの舵取りをした。張本は右に左に、リーグ最多となる182本ものヒットを運んだ。
そして78年、セ・リーグ唯一の優勝未経験球団・ヤクルトが球団創設29年目にして初のリーグ優勝、日本一を果たす。4番に座った大杉の比類なき勝負強さは、日本シリーズの第7戦でも発揮された。
セ・リーグの歴史を語る上で下剋上あり、盟主の転落・復権ありと、最も刺激的だったのは1970年代中盤から後半にかけての期間である。変化を巻き起こす渦の中心に、野武士のような東映の残党たちがいたことを忘れてはならない。=敬称略=
<この原稿は26年9月16日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>
