人生には転機がある。村田の野球人生を変えた人物がいる。ボストン・レッドソックスの松坂大輔だ。
 東福岡高のエースだった村田が初めて甲子園に出場したのは1998年のセンバツだ。3回戦で松坂を擁する横浜高と対戦した。
 ともに投打の中心。対抗心を持つなという方が無理な話だ。
 だが、結果は。
「3対0の完封負け。僕らは松坂から2本しかヒットを打てませんでした」
(写真:投手時代は技巧派だった村田。打者としてもパワーだけでなく広角に打てる巧みな技術が光る)
 苦い記憶も今となっては懐かしい思い出だ。
「松坂が投げるボールは九州では見たこともないようなボールでした。真っ直ぐも速かったけど、もっと凄かったのがスライダー。それこそ“ビシューッ”と音を立てて曲がるんです。
 ある打席で回転のいいボールがインコースに来た。真っ直ぐだと思ってよけると、なんと外角いっぱいに決まった。“何だコイツ、反則だろ”と思いましたよ」
 ピッチャーとしてのレベルの違いは、いかんともし難かった。残酷な現実を突きつけられた17歳は、しかしサバサバしていた。
「これはもう、努力しても抜けないだろうと……。格の違いを、まざまざと思い知らされました。それ以来、松坂に対しては“投げ勝ちたい”という意識よりも“いつか打ってやろう”という思いの方が強くなりました」

 東福岡高監督の葛谷修も「プロに行くとしたらバッターだろう」と考えていた。
「高校生当時から、右方向に大きな打球を飛ばせるテクニックを持っていました。元々パワーがある上に、彼はピッチャーをやっていたため読みがよく、体重移動が巧いんです。私に言わせれば彼は“技巧派のロングヒッター”ですね」
 高校時代、村田とバッテリーを組んでいた大野隆治(日大−福岡ソフトバンク、現ソフトバンク野球振興部)も村田のバッターの資質には一目も二目も置いていた。
「僕はキャッチャーというポジション柄、いろんなバッターのスイングを間近で見ることができたのですが、村田のスイングスピードは群を抜いていました」

 後に大学で村田を指導することになる鈴木には、忘れられない記憶がある。
「高3のセンバツで村田は松坂と対戦した。最初の打席、彼は空振り三振に倒れたんですが、あの松坂のストレートに振り負けていなかった。空振りこそしたものの、タイミング的にはドンピシャ。勢い余ってヘルメットまで飛ばしていた。三振は三振でも、三振の仕方が高校生レベルではなかった……」

 夏の大会前、鈴木が東福岡高を訪ねると、どしゃ降りの雨の中、村田は校門の前で傘もささずに待っていた。
「監督は僕をどこで使おうと思っているんですか?」
 挨拶後、村田がおもむろに発した第一声がそれだった。
「野暮なことを聞くな」
 鈴木がぶっきら棒に返すと、村田は神妙な口調になった。
「サードですか?」
「……」

 振り返って鈴木は語る。
「インスピレーションが合ったというか、もうビックリしました。実は村田にはいくつもの大学から誘いがあったらしいのですが、どこもピッチャーとしての評価だったようです。
 しかし私は最初からサードで使おうと思っていた。強肩に加え、ヒジが柔らかい。ピッチャーをやっていたため、投げ方もコンパクトでした」
 通算20ホームランは東都大学リーグ史上2位タイ。ベストナイン4回。野手に転向したことでプロへの道が開けたのである。

 2002年に自由獲得枠で横浜に入団したのは、いわば必然だった。
 担当スカウトだった中塚政幸の回想。
「当時、プロでは12球団それぞれが春のキャンプにアマチュアの選手を5、6人参加させていた。日大の4年生だった村田はウチのキャンプ(宜野湾)にやってきたのですが、その打球の勢いを見て僕は衝撃を受けた。プロと比較しても際立っていたんです。
 実は球団トップの間では自由獲得枠は法大の後藤武敏(埼玉西武)と東海大の久保裕也(巨人)でいこうということになっていた。キャンプ後のスカウト会議でそのことを知った時、内心、僕はおかしいと思いました。“村田と後藤とを比べた場合、はるかに村田の方が上だ”と思っていましたから。結局、多数決で村田に決まったという経緯があるんです」

 村田は1年目から活躍した。9月には10ホームランを放ち、月間MVPに選ばれた。ホームランも25本を記録するなど上々の滑り出しだった。
 しかしプロの水は甘くない。2年目、村田は執拗な内角攻めに苦しみ、ホームランは15本に減った。絵に描いたような“2年目のジンクス”だった。
 迎えた3年目、中日やロッテで主にクローザーとして活躍した理論家の牛島和彦が監督に就任した。これが村田には幸いした。

 牛島の“野球IQ”の高さは、浪商(現大阪体育大学浪商)を経てドラフト1位で中日に入団した時から既に評判だった。
 その頃、中日の1軍投手コーチを務めていたのが“神様、仏様、稲尾様”で知られる鉄腕・稲尾和久である。
 夏場、ちょうど牛島が二軍から一軍に上がったばかりの頃のことだ。稲尾は若いピッチャーを全員集め、ミーティングを始めた。
 その場で稲尾は全員に同じ質問をした。
「2死満塁、2−3(3ボール2ストライク)のカウントになったとする。さぁ、そこで何を投げる?」

 まず、150キロのスピードボールを誇る小松辰雄が指名された。
「僕は真っ直ぐで勝負します!」
 続いて指名されたのがスライダーに定評のあるサウスポーの都裕次郎。
「僕はやっぱりスライダーですかね」
 稲尾の目が細身のルーキーを向いた。
「おい、ウシは?」
「あのォ……」
「どうした?」
「2−3やいうても、0−3(3ボールナッシング)から2−3になったんか、2−0(2ストライクナッシング)から2−3になったんか、それがわからんことには答えは出ません」

 鉄腕の目が鋭く光った。
「ウシ、その通りや!」
 振り返って牛島は語る。
「状況がかわれば打者心理もかわる。そのことを僕は言いたかったんです。もっとも小松さんのストレートや都さんのスライダーのように、これといったボールがあったら、僕も得意な球種を口にしていたかもしれません。しかし、当時はまだフォークボールも未完成で自信のあるボールがなかった。だから、ああいう言い方になったのかもしれませんね」
 ピッチャーとしては上背がなく、指が短いためボールを挟むのにも一苦労した牛島が生き馬の目を抜くプロ野球の世界で生き残るには知恵を絞るしかなかった。

 その牛島の目に3年目の村田は力任せに問題を解決しようとしているように映った。これではピッチャーの術中にはまるだけだ。
 低打率に悩む村田に、牛島は噛んで含めるように言った。
「ピッチャーいうても先発、中継ぎ、抑え。皆、考え方は違う。ただ、どんなピッチャーも絶えず状況を読みながら投げている。たとえば目の前のバッターと次のバッターと、どっちで勝負するか。次のバッターの方が相性が良かったら、目の前のバッターは歩かせるよ。四球をもらえば、率も上がる。(四球を)もらえる時にはもらっといた方がええ。そのように総合的に判断して打席に立たんことには、なかなか打率は上がってこんよ」

 牛島のアドバイスの効果は覿面だった。翌年(06年)、初めて村田はホームランを30本台(34本)に乗せ、打率もこれまでで最高の2割6分6厘をマークした。非凡な素質が開花するのは、ここからである。
 村田の回想。
「牛島さんにはズバズバ言われましたが、全て勉強になりました。配球を考えたり、ピッチャー心理を読んだり……。それまでの3年間は、“ただ打っているだけ”という感じだったので余計に新鮮に感じられたのかもしれません。その意味で(牛島さんは)僕の野球観に大きな影響を与えてくれた人です」

 このところ、村田には気に入っている呼称がある。
「男・村田」
 何やら着流しで「人生劇場」をうたっていた頃の村田英雄を連想させるが、そこは同じ九州男児、体の中には熱いものが流れているに違いない。
〽やると思えば どこまでやるさ それが男の 魂じゃないか
 残留を決めた際には、こうも言った。
「自分はカネで動くほどやわな男ではない」

 グラウンドでも男を上げたのは4年前の冬だ。
 北京五輪のアジア予選。五輪出場を決めた台湾戦、7回に背中にデッドボールを受けるなり、村田は雄叫びをあげた。このファイティング・スピリットがチームに火をつけたのである。
 試合後、監督の星野仙一(現東北楽天監督)は村田の闘志を絶賛した。
「気持ちが出ていたなァ。あれは褒めてやりたいよ」

 連覇を達成したWBCでも、村田はチームのために体を張った。
 第2ラウンドでの韓国戦、4回にセンター前ヒットを放ち、一塁に駆け込む際に右太ももの裏を痛めた。
 ドクターストップが宣告され、無念の帰国を余儀なくされることになった村田は、唇を噛みながら言った。
「ここまで体を張ってジャパンのために尽くしました」
 優勝メダルは代表チームが帰国後、監督の原辰徳から直々に手渡された。
 その際、村田は満面に笑みを浮かべてこう語った。

 草木もなびくように島国の逸材が米国に流出するなか、村田は「メジャーに行く気はない」と公言してはばからない。
 こういう古風にして律儀な人生観を持つ男がボーダレス化を迎えた球界にひとりくらいいるのも悪くはあるまい。時勢に抗ってこそ男である。

(おわり)

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<この原稿は2011年8月13日号『週刊現代』に掲載された内容です>