2007年2月、トルコ・イスタンブール。タクシーから見える街並みは、僕の想像とは全く違っていた。
トルコの商業都市であるイスタンブールはアジアと欧州の文化が交わる場所と呼ばれている。アジア的な混沌とした街を僕は思い浮かべていたのだが、実際は高層ビルの間からタマネギの形をしたモスクが顔を覗かせていることを除くと、フランスやスペインの欧州の大都市と変わらなかった。
(写真:前日本代表監督で現フェネルバフチェ監督のジーコ) 真新しいメルセデスベンツやアウディのスポーツカーや、真っ赤なフェラーリが、道ばたに止めてあるのが見えた。街を出て、自動車専用道路を走ると、左右には建設途中の高層ビルが建ち並んでいた。トルコ(Turkey)は、Brics(ブラジル、ロシア、中国など新興成長国の頭文字をとったもの)に続くVistaの『T』であることを思い出した。
僕たちは、街の郊外にあるこの国で最も人気のあるフットボールクラブの一つ、フェネルバフチェのクラブハウスに向かっていた。
フェネルバフチェの監督はアルトゥール・アントゥーネス・コインブラ、通称ジーコ。元日本代表監督である彼とクラブハウスで待ち合わせをしていたのだ。
今回の取材に、鹿島の通訳をしていたエジソンに同行を頼んでいた。僕は、96年から97年にかけて、1年間、ブラジルのサンパウロを中心に南米大陸を旅したことがあった。その旅の中で、僕は言葉を覚え、ポルトガル語とスペイン語を話すことはできるようになった。
ただ、普段の生活で支障がないことと、仕事で使うのとは別である。話を聞きながら、質問を考え、それを外国語に置き換えることは、非常に負担が大きい。時に通訳を使わずに取材をすることもあるが、僕は30分程度でへとへとになってしまう。僕たちの仕事は、取材をして文章でそれを伝えることである。外国語がいくら上手くとも、被取材者から言葉を引き出すことができなければ意味がない。そのため、経費、時間に余裕のある時は必ず通訳を頼むことにしていた。
日本では本音をなかなか話せなかったジーコ 僕とジーコの付き合いは、10年以上前に遡る。
当時、僕は週刊誌の編集部で働いていた。その雑誌で、鹿島アントラーズで現役を引退したばかりの彼の連載を始めることになった。彼の生まれ故郷であるブラジルのリオ・デ・ジャネイロを僕は何度も訪れた。連載は2年近くにわたり、彼の立ち上げたサッカーセンター、あるいは彼の自宅のプールサイドで、のべ何十時間も話を聞くことになった。
ジーコが日本代表監督になった時、僕は出版社をやめて、フリーの書き手となっていた。そして、僕は様々な雑誌や新聞で彼のインタビュー記事を書くようになった。2006年のワールドカップの直前に話を聞いた時には、「これ以上、聞くことはないだろう」とジーコは(インタビューの途中に?)おどけたことがあった。
「監督をやっている間は話せないことも多い。だから、やめたら必ず話を聞きに行くよ」
僕はそう切り返すと、彼はにやりと笑った。
その約束を果たすために、僕はイスタンブールまで行くことにしたのだ。
正直なところ、日本で彼に取材をするのは好きではなかった。日本代表監督であった彼には取材が殺到していた。取材が可能な日は限られているため、「1時間以内」と区切って、そうした日にはいくつものインタビューが予定されていた。
無機質な会議室の中で、彼は何度も同じ事を質問されていたことだろう。彼はそれをプロとしてきちんとこなしていた。ただ、その言葉が面白いかどうかは別問題である。
ジーコは、末っ子らしく用心深いところがあった。僕の経験では、取材の現場に顔見知りではない人間がいると気を遣うこともあった。そんな彼が日本ではなかなか本音を話さないことを僕は知っていた。今回、鹿島で長く働いていたエジソンに通訳を頼んだのは、できるだけ自然な感じで、話をして欲しいと思ったからだった。
ジーコの顔は何故かこわばっていた フェネルバフチェのクラブハウスの入り口は、丘の上にあった。ジーコに会いに来たと英語で門番に告げると、トランシーバーで連絡をとり、門を開けてくれた。
(写真:フェネルバフチェのバス) 中に入ると、ジーコなどフェネルバフチェの選手たちの写真がコラージュされた青いバスが止められていた。まだ真新しい建物の横に、芝生のグラウンドが2面隣接されていた。かなり大きな敷地のようだった。
「どうしてここにいるんだ?」
大きな声がしたので、向いてみるとジーコの兄のエドゥーだった。エドゥーは手を広げて、エジソンと抱き合った。
ジーコが日本代表監督だった時代、エドゥーはテクニカルディレクターを務めていた。日本ではジーコの兄という印象が強いが、ブラジルのマラカナンスタジアムの1階のミュージアムの壁には、エドゥーの写真も飾ってある程の名選手でもある。
ジーコは世界中に知られた選手であり、誰もが彼と知り合いになりたがった。中には彼の名前を利用しようと考える人間も少なくない。そのためか、彼は人との付き合いで距離を置く傾向があった。一方、エドゥーは周りの人と気さくで親密な関係を築いていた。特にエジソンとは家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。
「ジーコとここで待ち合わせをしているんだ」
エジソンが言うと、ジーコが来るまで「ここを案内してやる」と僕たちを手招きした。
「ここは選手たちが泊まる部屋」
通路の左右にはホテルのように部屋が並んでいた。エドゥーは、プレス用の部屋、食堂の扉を開けると、中にいた人間たちに手を挙げて挨拶をした。ここでもエドゥーは日本と同じように皆と仲良くしているようだった。
「ここはリハビリ用のプールがある。奥はジム」
ジムの中には練習着の選手がおり、僕と目が合うと片手を上げて挨拶した。
「誰?」
僕が尋ねると、エドゥーは「ケジュマンだよ」と答えた。
マテヤ・ケジュマンはかつてセルビア・モンテネグロ代表として、またイングランドの名門チェルシーでプレーしていた。どこかで見たことのある顔だと思ったのは当然だった。
入り口に戻ると、装飾がついたジーンズをはいた黒人が立っていた。彼もまた見たことがあった。エドゥーは僕の耳元で囁いた。
「アッピアーだよ。ガーナ代表でワールドカップに出ていただろう」
アッピアーは日本では知名度はそれほど高くないが、アフリカを代表する中盤のプレーヤーの1人である。恐らくどのビッグクラブも欲しがる選手だ。
ブラジル代表で10番をつけたこともある名手アレックスや、サンパウロFCにいたルガーノなど南米出身の著名な選手が、このフェネルバフチェに所属していることは知っていたが、それだけでなく世界中から力のある選手を獲得しているのだと改めて思った。
(写真:フェネルバフチェのホームスタジアムとジーコ) ジーコが現れたのは、それからしばらくしてからだった。
「良く来たな」
ジーコは僕の手を握った。ジーコの顔が少し曇っていた。
「今さっき会長から電話があった。急遽、僕と話がしたいと言うんだ。だから、スタジアムにある事務所にいかなければならない。取材の時間が遅れるけれど、大丈夫か?」
昨日、フェネルバフチェは格下の相手に、シュートを文字通り雨あられのように降らせたが、得点は入らなかった。逆に、相手のチームに一瞬の隙をつかれ失点。圧倒的に試合を支配しながら負けていた。それが原因で呼び出されたようだった。
僕たちはこの取材のために一日時間を空けていた。全く問題にないと答えた。
「クラブの上の連中は、『選手に沢山金を払っているから、全ての試合に勝って当たり前だ』と思っている。昨日、うちはどれだけチャンスがあったか。それでも得点が入らない。それがサッカーだ。それを分かってくれないんだ」
ジーコは肩をすくめた。
僕とエジソンはジーコの車に乗って、再びイスタンブールの中心へと戻ることになった。
ジーコの車はチームから提供されたアウディの高級車だった。彼がアクセルを踏み込むと、アウディは静かにそして滑らかに速度を上げた。ブラジルでも彼の運転する車に乗ったことがあるが、かなり速度を出していたことを思い出した。
車の中には、小さな音で音楽が流れていた。
「パゴッジ?」
僕が尋ねると、ジーコは頷いた。
パゴッジはブラジルの大衆音楽のジャンルの一つである。ジーコの息子の一人はパゴッジの歌い手となっているほど、コインブラ一家はこの音楽を愛していた。
「いつも車の中ではこんな音楽を聞いているの?」
「ああ。ブラジルから送ってもらっているんだ」
(写真:フェネルバフチェのスタジアムの外観) 屋根のついたフェネルバフチェのスタジアムが見えた。スタジアムの横には、「100」と書かれた黄色と青色の看板が目に入った。フェネルバフチェは今年創立百周年になる。記念すべき年にリーグを制覇することはジーコに課せられた義務だった。
ジーコはゆっくりとアクセルを緩めると、駐車場に車を止めた。
「少しこのあたりで時間を潰していてくれ。だいたい1時間ぐらいで終わると思う」
腕時計を見ながらジーコは言った。その顔がこわばっていることに僕は気がついた。
この国で仕事をすることは、厄介である――ジーコの顔色の訳を、僕は後から知ることになった。
(後編に続く)
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田崎健太(たざき・けんた) ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。
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