1984年ロサンゼルス五輪で、野球日本代表を金メダルに導いた松永怜一さんが、さる5月12日、90歳で亡くなった。

 

 

<この原稿は2022年6月10日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

 

 野球はロス五輪では公開競技だったため、正式競技での金メダル獲得ほど大きな話題にはならなかった。それでもドジャースタジアムで行われた決勝での米国との熱闘は、今も語り草である。

 

 日本代表とはいっても、当時は大学生と社会人の混成チーム。「侍ジャパン」として活動する今ほどのブランド価値はなかった。

 

 寄り合い所帯のチームを一つに束ねたのは、ひとえに松永さんの使命感と情熱だった。

 

 松永さんは語っていた。

「五輪という晴れ舞台。しかも、このロス大会は近い将来、野球が正式競技となるためのステップと位置付けられていた。ドジャースのピーター・オマリー会長も“野球が世界中で盛んになるための節目の大会”と話していた。

 

 だから、これは何としてもいい結果を出したいと。いや、それ以上に無限の可能性に挑戦する喜びとやり甲斐が私にはありました」

 

 公開競技とはいえ、米国は野球の母国であり、日本との決勝は、ほぼ満員の観客で埋まった。後にメジャーリーグで4度のホームラン王に輝くマーク・マグワイアや通算2176安打をマークするウィル・クラークらが代表メンバーに名を連ねていた。

 

 日本の金メダルを決定付けたのは4番・広沢克己(当時は明大)の一振りだった。

 

 8回表2死一、三塁。スコアは日本の3対1。ここで打席に立った広沢はジョン・フーバーが投じたカーブを振り抜いた。打った瞬間、広沢は「外野フライか」と諦めかけたが、意に反して打球は左中間スタンド中段に飛び込んだ。

 

 広沢の回想。

「2点差なら、まだわからないけど、4対1になれば勝てる。そう思っていた。だから、とにかくヒットを打とう、ショートの頭を越そうと。フライが上がった瞬間は、これで万事休すだと思った。まさか、あそこまで飛んでいくとは……」

 

 アマチュアが主体でありながら、当時の日本球界には大学と社会人の壁、学校間の壁が存在した。

 

 法大OBの松永さんが明大の学生である広沢を指導するためには、明大の島岡吉郎監督の了解を得る必要があった。松永さんは島岡さんの許可を得て、アウトステップのクセを矯正した。それが劇的な3ランに結びついたのである。

 

 松永さんの五輪への情熱は法大の後輩・稲葉篤紀に受け継がれ、昨年夏の東京五輪で結実した。

 


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