近頃はスポーツ選手が「国民栄誉賞」を辞退したからといって、いちいち驚かなくなった。イチローは2001、04、19年と3度も授与を打診されながら「野球人生を終え切った段階でいただけるように頑張りたい」「人生の幕を下ろした時にいただけるように励みます」などと、その都度理由をつけて断っている。二刀流の大谷翔平もア・リーグMVPを獲得した昨年オフ、同賞の授与を打診されたが、「まだ早い」と言って辞退している。

 

 昔は違った。<広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの>に与えられる同賞を、多くのスポーツ選手は羨望の眼差しで見つめていた。理由は受賞者第1号がホームランの「世界記録」を更新した王貞治だったからに他ならない。なんと王は同賞が定められてから、わずか6日後に受賞している。要は王の「顕著な業績」を顕彰するために設けられた賞だったのだ。受賞によって箔がついたのは王ではない。国民的ヒーローの王が受賞することで新設の賞に箔がついたと考えるべきだろう。

 

 ボクシングで世界王座(WBA世界ライトフライ級)防衛13度の日本記録(男子)を持つ具志堅用高の周辺が騒がしくなったのは、具志堅が所属していた協栄ジムの元会長・金平桂一郎によると、「10回目の防衛を果たした1979年10月あたりから」だった。王の受賞から2年後のことだ。首相は国民栄誉賞を創設した福田赳夫から政敵の大平正芳にかわっていた。具志堅サイドは有力政治家にも太いパイプのあった先代会長・金平正紀が中心となって猟官運動ならぬ“猟賞運動”を展開した。

 

 政治家も具志堅を放っておかなかった。試合のたびに30%以上の視聴率を稼ぐ人気者なのだ。ハイメ・リオスとの5度目の防衛戦(1978年5月7日)では、ついに視聴率を40%台(43.2%)に乗せた。選挙の応援にもたびたび駆り出され、慣れない手付きでマイクを握ったりもした。

 

 しかし、猟賞運動は結実しなかった。金平桂一郎は言う。「具志堅さん自身は王さんを尊敬していたし、頂けるものなら頂きたい、という気持ちだったのでは。名誉なことですから。だが当時、ボクシングに対してはアレルギーが強かった。“あれは国民的スポーツじゃない”とか“王さんと一緒に扱うな”という反対の声が一部から上がったようです」。翌80年12月、鈴木善幸内閣は正式に授与見送りの方針を固めた。

 

 本人の意思は別として、異次元の強さを誇るバンタム級3団体統一王者の井上尚弥や、五輪金メダリストにして難関のミドル級を制した村田諒太に同賞受賞の資格がないとは思えない。同賞をめぐる“具志堅トラウマ“は、旧世代の証跡か……。

 

<この原稿は22年6月8日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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