東京ヤクルトの古田敦也選手兼任監督に続き広島の佐々岡真司も今季限りでの引退を発表した。古田と佐々岡は89年のドラフトで指名された同期生である。


 89年はドラフトの当たり年で1位組は8球団が競合した野茂英雄(近鉄)を筆頭に佐々木主浩(大洋)、小宮山悟(ロッテ)、潮崎哲也(西武)、与田剛(中日)、西村龍次(ヤクルト)、酒井光次郎(日本ハム)、葛西稔(阪神)、そして佐々岡(広島)と蒼々たる顔触れが並ぶ。古田はヤクルトの2位指名だった。

 主たる選手供給源は社会人野球だった。野茂は新日鉄堺、潮崎は松下電器、与田はNTT東京、西村はヤマハ、佐々岡はNTT中国、古田はトヨタ自動車の出身。プロ1年目のシーズン後、古田に社会人野球のレベルについて訊ねると、こんな答えが返ってきた。「僕の場合、全日本で実際に野茂や潮崎、与田のボールを受けていて、そのスピードやボールの切れには何度も驚かされました。だから彼らが通用しない世界だったら、僕がプロに入っても成功しないだろうという一つの目安にはなりました。実際、スピード一つとってもプロのピッチャーを上回っていましたから」

 当時のプロで最も速いボールを投げるピッチャーは与田だった。フォークの落差なら野茂、スライダーの切れなら佐々岡、シンカーの鋭さなら潮崎が一番だと言われていた。全て社会人野球出身のルーキーだった。

 その理由についてソウル五輪代表監督の鈴木義信は「キューバに追いつけ追い越せを目標にやってきた。外国の強打者を抑えるには力のあるストレートに加えタテの変化球が必要」と述べた。キューバという強大なる敵がアマの精鋭を鍛え、結果的に社会人野球はプロへの人材供給源の役割を果たしたのである。当時の1位指名選手の契約金は平均で7500万円程度。育成コストは全てアマ持ちだったことを考えれば、安いものだったと言えるだろう。

 プロ野球のレベルを人材供給源として下支えした企業チームは89年から07年にかけて半減した。五輪という目標もなく、かつての活況はない。資金提供や人材交流などでプロが社会人野球に協力すべき点はもっとあるのではないか。社会人野球の疲弊がプロの利益をも棄損させることは言うまでもない。

<この原稿は07年9月26日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

◎バックナンバーはこちらから