中学時代、野球部に所属していた村上は、愛媛県内では知られる投手だった。やり投げを始めたのは高校に入学してからだ。中学時代、体育の授業で、ハンドボールを投げる村上の姿が当時陸上部の顧問だった中谷博氏の目に留まったのがきっかけだった。その後、中谷氏の推薦で、投てきの強豪校である今治明徳高から勧誘を受ける。同校陸上部顧問(当時)の浜元一馬氏が、中谷氏と“旧友”という縁もあった。
 数々の野球の名門校からの誘いを断り、村上は今治明徳高に入学。やり投げに打ち込む道を選択した。スピードガンで150キロ以上を記録した逸話を持つ村上には高校時代、プロからの誘いもあった。


「野球はやりたくなかった。コントロールが悪かったんです(笑)」
 やり投げを選んだ理由について、村上はこう語るが、もちろんそれだけではない。自分の力のみで勝負でき、評価が自分に返ってくる個人競技に魅力を感じたからだった。

 今治明徳高時代は、2年時にインターハイで優勝。3年時にはインターハイのやり投と円盤投で2冠を達成する。やり投げでは、76メートル54のジュニア日本記録・高校記録を樹立した。
 その後も村上は、一歩一歩確実に競技者としての道を歩んできた。日本大学3年時で迎えたシドニー五輪への出場は叶わなかったが、翌年の学生インカレで史上3人目の80メートル越えとなる80メートル59を記録。02年には左脛(けい)骨を疲労骨折しながらも、釜山アジア大会で銀メダルを獲得した。
 アジア大会後に踏み切った手術の影響で2年半にわたり本来の助走ができなかったが、脚の回復とともに調子も上を向き、アテネ五輪イヤーの04年、シーズンに入ったばかりの4月に81メートル71の自己ベストを記録した。それが現在の自己記録だ。
 この年、村上は初の五輪の舞台を経験した。

 アテネ五輪イヤーはを迎えたばかりの04年2月には、村上の元に訃報が届いた。村上がやり投げを始めるきっかけをつくった中谷氏が、脳梗塞で急逝したのだ。当時49歳。当然、現役で教壇に立っていた。突然の訃報だった。「中谷先生のためにも、絶対オリンピックに行く」。そう村上は胸に誓った。
 村上が、自身にとって3年ぶりの80メートル越えとなる81メートル71の自己新記録を出し、五輪切符を決定づけたのは、それから2カ月後のことだった。
「中谷のためにも『オリンピックに行かないとバチが当たるぞ』と村上には言って聞かせていました。(代表に決まって)中谷のいい供養になったと思います」
 中学時代、中谷氏と野球部でバッテリーを組んだ浜元氏は当時、こう語った。

 雰囲気に飲まれたアテネ五輪

 初の世界大会となったアテネ五輪は、予選落ちに終わった。
 その後、05年ヘルシンキ世界選手権、今年の大阪世界選手権と出場し、いずれも目標とした決勝進出はならなかった。だが、世界の舞台を経験したことは、村上にとって確実に糧となっている。
「五輪、世界選手権と経験して、世界と自分の力の差を、肌で感じたのは大きいですね。国内大会と世界大会では全く、違いますから。ヘルシンキと大阪を比較しても、一番違うと感じるのは、経験ですね。結果は残せなかったが、世界大会の流れというのがある程度、分かってきたと思います」
 そう村上は話す。そして、3度の世界の舞台を経験してきた上で、「オリンピックは別格(笑)」と振り返る。
「オリンピックは、世界選手権と全く違う。すごい舞台だな、というよりも、何かすごく異様な雰囲気を感じましたね。何万人という人が見ている中で競技をすることがなかったので、ワクワク感や高ぶる気持ちもあったんですけど、観客席から見ているのと、フィールドの中に立っているのは全く別だった。怖い雰囲気だな、と…」
 村上はどんな試合でも、競技開始に向け選手が招集され、やりのピットに移動する際、自分が試合で投げる場面を順に頭に描く、イメージトレーニングを行う。だが、アテネ五輪ではそれができなかった。
「いつも、やりのピットに向かうときに、自分が投げる姿、ピットに立ったときの気持ちの持っていき方をイメージして、気持ちを高めていくんです。でもそのときは自分がどういうふうに投げればいいかがイメージできなかった。どうやって自分が投げればいいんだろうと、自分がいざ投げるときの想像ができなかった。それが経験のなさですよね。世界で活躍する選手は、ああいう経験をたくさんしているんだろうな、と。それがまた足りないんだなと痛感しました」
 そして続けた。
「自分をどこまで高めていけば、世界でどこまでいけるというのはある程度見えてきました」
 力強い言葉の先には、来年の北京五輪の舞台が見えているはずだ。


(続く)

村上幸史(むらかみ・ゆきふみ)
1979年12月23日、愛媛県出身。陸上やり投げ。スズキ所属。中学時代は軟式野球部に所属。高校野球の強豪から勧誘をうけるも、今治明徳高等学校に進学し、やり投げの道へ。めきめきと頭角を現し、97年、インターハイで優勝。98年、日本大学に進学。99年、世界ジュニア選手権で銅メダル獲得。2000年日本選手権で優勝以降、同大会では8連覇中。アジア大会では02年釜山、06年ドーハと2大会連続で銀メダルを獲得。04年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界選手権、07年大阪世界選手権代表(いずれも予選敗退)。




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