仙台育英(宮城)が東北勢として初めて甲子園を制した。ご同慶の至りである。

 

 東北勢は過去、春夏合わせて12回も決勝に進出しながら、いずれも敗れており、「越すに越されぬ白河の関」などと言われたりもした。その呪縛から、やっと解き放たれた。

 

 東北勢の悲願達成に際し、ひとりの審判員のことが頭に浮かんだ。1965年から75年まで春夏通算11年連続で決勝戦の球審を務めた郷司裕である。2006年12月に他界した。

 

 郷司はNHKの運動部記者からアマチュア野球の審判員に転じた変わり種である。高校、大学、社会人で2000試合以上審判を務めた功績が認められ、17年には特別表彰で野球殿堂入りを果たしている。

 

 その郷司が亡くなる直前まで気にかけていた判定がある。69年夏、郷司は松山商(愛媛)対三沢(青森)の決勝戦で球審を務めた。延長18回引き分け、翌日、再試合。深紅の大旗を手にしたのは松山商だったが、優勝校に勝る拍手が敗れた三沢にも送られた。

 

 郷司の判定が物議をかもしたのは1試合目の延長15回裏、1死満塁の場面である。スコアは0対0。三沢の打者は9番・立花五雄。松山商のエース井上明は3-0からストライクをひとつとったものの、依然として絶体絶命のピンチであることに変わりはない。押し出しなら、三沢のサヨナラ勝ち。今まさに大旗が白河の関を越えようとしていた。

 

 5球目、井上の山なりのボールは真ん中低めへ。立花は「低い」と判断して見送った。三沢のエース太田幸司は「勝ったと思ってベンチを飛び出しかけた」。だが、郷司の判定は「ストライク」。続く6球目、立花の快音を発したワンバウンドの打球に井上が飛びつき、カバーしたショート樋野和寿がホームに好返球。松山商は九死に一生を得たのである。

 

 明大卒業後、朝日新聞の記者となった井上が神宮で六大学野球を取材していた時のことだ。「キミ、あのボールどう思う?」。郷司に唐突に聞かれた。「あれはストライクですよ」。「そうだよね」。郷司はまだ煩悶を引きずっていた。

 

 ストライク・ボールの判定への異議は本来、タブーである。球審がストライクと言えばストライクだ。しかし、あまりにも微妙な一球だったため、その後、郷司は行く先々で陰口を叩かれる。東北で球審を務めた際には、関係者に「あれは誤審でしょ」と詰め寄られた。松山商監督の一色俊作は明大野球部出身で、郷司の後輩にあたる。判定に情がからんだとの悪意の込もった噂話も生真面目な郷司を悩ませた。「いつか東北勢が甲子園で優勝したら、この話も過去のものになるんでしょうねぇ」。ふと口にした一言が、私には忘れられない。あれから53年、恩讐の消えた夏である。

 

<この原稿は22年8月24日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから