人事に際し、やたら前任者を否定したがる者がいる。その結果、せっかく進めてきた新規事業が頓挫してしまうことが、ビジネスの世界では、よくある。その一方で、何事も前例踏襲とばかりに、全く自らの色を出そうとしない後任者もいる。キジも鳴かずば撃たれまい、ということなのだろうが、これでは事業は前に進まず、組織が活性化することもない。

 

 かつてサッカー界には日本リーグ(JSL)総務主事というポストがあった。今ならJリーグチェアマンか。総務主事は予算や試合日程などを決める実行委員会の議長も兼ねており、いわばリーグ運営の実質的な最高責任者だった。

 

 まだアマチュアリズムを美化する空気が色濃く残っていたサッカー界にあって、それに異を唱え、プロ化に向けて先駆者的な働きをしたのが、さる24日、肝細胞がんのため85歳で世を去った第6代総務主事の森健兒である。

 

「プロ化の過程には順序がある。まずは選手がプロになり、指導者がプロになり、続いてクラブがプロになる」。この計画に従い、森は86年6月、スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度を導入した。その第1号が奥寺康彦と木村和司である。

 

 またJSL内に活性化委員会(プロリーグ化検討委員会)を設けて議論を加速させ、プロ化の内実を着々と整えていった。そこでの骨太の方針がJリーグの骨格となるのである。

 

 その森から88年8月、総務主事の大役を引き継いだのがJリーグ初代チェアマンの川淵三郎だ。三菱重工・航空機製作所の資材部次長として名古屋支店に転勤していた森は、同年4月、部長に昇進する。部長ともなると、サッカーの会議のたびに東京に戻るわけにはいかない。

 

 明と暗。企業人として出世のレールに乗った森に対し、川淵は「サラリーマン人生のどん底」を味わっていた。その年の6月、古河電工の名古屋支店に勤務していた川淵に子会社である古河産業への出向辞令が下る。「自分のサラリーマン人生も先が見えた」。傷心の川淵に森は総務主事のポストを打診する。それは川淵にとっても渡りに舟だった。「もうサッカーしか、残る人生に夢を託して生きられるものはない」。かくして剛腕の第7代総務主事が誕生するのである。

 

 ある意味、歴史は偶然の産物である。もし森と川淵が同時期に名古屋に勤務していなかったら…。あるいは森の栄転、川淵の左遷が、ほぼ同時期になされていなかったら…。その後の日本サッカーの風景は随分、違ったものになっていたに違いない。実務家肌の森に対し、川淵には突破力があった。時代の要請に合致したリーダーの登場は、今にして思えば「天の配剤」だった。

 

<この原稿は22年8月31日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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