村上幸史(陸上やり投げ/愛媛県今治市出身)第1回「ビッグスローへの期待」
今夏の大阪選手権の代表選考を兼ねた今年6月29日、陸上の日本選手権初日に行われた男子やり投げ決勝で、02年釜山、06年ドーハと、アジア大会で2大会連続銀メダルを獲得している陸上やり投げの第一人者・村上幸史(スズキ)は、5投目に79メートル85を投げ、8年連続8回目の優勝を果たした。世界選手権の参加記録A標準(81メートル00)突破はならなかったものの、05年ヘルシンキ大会に続く世界選手権代表に名を連ねた。
かつて、溝口和洋、吉田雅美が世界と互角に戦った男子やり投げ。村上は、5年前の日本大学4年時、日本学生インカレで80メートル59を記録し、溝口、吉田に続く史上3人目の80メートルスローワーとなった。
その後、左脛(けい)骨の怪我、手術などを乗り越え、アテネ五輪イヤーの04年、シーズン序盤に81メートル71の自己ベストを記録した。
村上にとって初めての世界大会となったアテネ五輪、そして05年のヘルシンキ世界選手権では、予選落ちに終わった。世界の舞台ではまだ真の力は発揮されていないが、今後の飛躍への期待は大きい。
3度目の世界の舞台
今シーズンの初戦となった4月の日本グランプリシリーズ第1戦、日本選抜和歌山大会で村上は、世界選手権の参加標準記録B(77メートル80)を超える79メートル51で優勝。「80メートルいったかなと思った」という手ごたえのある一投で、2度目の世界選手権に向けて幸先の良いスタートを切った。
それから約2カ月後の日本選手権では、和歌山大会での記録をさらに伸ばす79メートル85を投げて優勝、世界選手権代表を確実のものにした。
「日本選手権、8年連続8回優勝」。これはハンマー投げの室伏広治(ミズノ)の「13年連続13回優勝」に次ぐ、男女合わせても2番目となる連覇記録だ。
だが、大阪世界選手権の代表入りを決めた8回目となる日本選手権の優勝は、簡単なものではなかった。
5投目に今季自己最高で、2度目のB標準突破となる79メートル85を投げて逆転優勝を決めたが、それ以外は、すべて73メートル以下と苦しんだ。
荒井謙(七十七銀行)が2年ぶりの自己ベストとなる75メートル67を記録したほか、3人が73メートルを越え、5投目がなければ、4位という結果に終わっていた。
試合後、村上は、約3週間前の練習で、右わき腹に肉離れを起こしていたことを明かした。
「調子が良かったので、ついやりすぎてしまった。それ以降、やりを投げていなくて、今日はぶっつけ本番だった。痛くはなかったが、気になって、5投目以外は動きが狂ってしまいました」
それでも、代表切符がかかった大事な試合で、苦しみながらもきっちりと結果を残し、第一人者としての存在感を示した。
その後も左わき腹の怪我の影響で、投てき練習は2週間ほどできなかったという。本人は、「元々自分は、練習ではやりをあまり投げないタイプ。ブランクという意識はまったくない」と前向きに捉え、大阪での世界選手権に向け、国内でじっくりと調整に励んだ。
「世界陸上で決勝進出の手応えは掴めています。今シーズンを振り返って、行けると思います」
大会前には、力強くこう話していた。
そして、村上にとって3度目の世界の舞台となった9月2日に閉幕したばかりの世界選手権大阪大会――。「決勝進出」を最大の目標に臨んだが、予選通過ラインに約2メートル届かず、決勝進出はならなかった。
(続く)
村上幸史(むらかみ・ゆきふみ)
1979年12月23日、愛媛県出身。陸上やり投げ。スズキ所属。中学時代は軟式野球部に所属。高校野球の強豪から勧誘をうけるも、今治明徳高等学校に進学し、やり投げの道へ。めきめきと頭角を現し、97年、インターハイで優勝。98年、日本大学に進学。99年、世界ジュニア選手権で銅メダル獲得。2000年日本選手権で優勝以降、同大会では8連覇中。アジア大会では02年釜山、06年ドーハと2大会連続で銀メダルを獲得。04年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界選手権、07年大阪世界選手権代表(いずれも予選敗退)。
かつて、溝口和洋、吉田雅美が世界と互角に戦った男子やり投げ。村上は、5年前の日本大学4年時、日本学生インカレで80メートル59を記録し、溝口、吉田に続く史上3人目の80メートルスローワーとなった。
その後、左脛(けい)骨の怪我、手術などを乗り越え、アテネ五輪イヤーの04年、シーズン序盤に81メートル71の自己ベストを記録した。
村上にとって初めての世界大会となったアテネ五輪、そして05年のヘルシンキ世界選手権では、予選落ちに終わった。世界の舞台ではまだ真の力は発揮されていないが、今後の飛躍への期待は大きい。
3度目の世界の舞台
今シーズンの初戦となった4月の日本グランプリシリーズ第1戦、日本選抜和歌山大会で村上は、世界選手権の参加標準記録B(77メートル80)を超える79メートル51で優勝。「80メートルいったかなと思った」という手ごたえのある一投で、2度目の世界選手権に向けて幸先の良いスタートを切った。
それから約2カ月後の日本選手権では、和歌山大会での記録をさらに伸ばす79メートル85を投げて優勝、世界選手権代表を確実のものにした。
「日本選手権、8年連続8回優勝」。これはハンマー投げの室伏広治(ミズノ)の「13年連続13回優勝」に次ぐ、男女合わせても2番目となる連覇記録だ。
だが、大阪世界選手権の代表入りを決めた8回目となる日本選手権の優勝は、簡単なものではなかった。
5投目に今季自己最高で、2度目のB標準突破となる79メートル85を投げて逆転優勝を決めたが、それ以外は、すべて73メートル以下と苦しんだ。
荒井謙(七十七銀行)が2年ぶりの自己ベストとなる75メートル67を記録したほか、3人が73メートルを越え、5投目がなければ、4位という結果に終わっていた。
試合後、村上は、約3週間前の練習で、右わき腹に肉離れを起こしていたことを明かした。
「調子が良かったので、ついやりすぎてしまった。それ以降、やりを投げていなくて、今日はぶっつけ本番だった。痛くはなかったが、気になって、5投目以外は動きが狂ってしまいました」
それでも、代表切符がかかった大事な試合で、苦しみながらもきっちりと結果を残し、第一人者としての存在感を示した。
その後も左わき腹の怪我の影響で、投てき練習は2週間ほどできなかったという。本人は、「元々自分は、練習ではやりをあまり投げないタイプ。ブランクという意識はまったくない」と前向きに捉え、大阪での世界選手権に向け、国内でじっくりと調整に励んだ。
「世界陸上で決勝進出の手応えは掴めています。今シーズンを振り返って、行けると思います」
大会前には、力強くこう話していた。
そして、村上にとって3度目の世界の舞台となった9月2日に閉幕したばかりの世界選手権大阪大会――。「決勝進出」を最大の目標に臨んだが、予選通過ラインに約2メートル届かず、決勝進出はならなかった。
(続く)
村上幸史(むらかみ・ゆきふみ)
1979年12月23日、愛媛県出身。陸上やり投げ。スズキ所属。中学時代は軟式野球部に所属。高校野球の強豪から勧誘をうけるも、今治明徳高等学校に進学し、やり投げの道へ。めきめきと頭角を現し、97年、インターハイで優勝。98年、日本大学に進学。99年、世界ジュニア選手権で銅メダル獲得。2000年日本選手権で優勝以降、同大会では8連覇中。アジア大会では02年釜山、06年ドーハと2大会連続で銀メダルを獲得。04年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界選手権、07年大阪世界選手権代表(いずれも予選敗退)。