現役時代、“燃える闘魂“と呼ばれたアントニオ猪木さん。記憶に残る名勝負をひとつ挙げろと言われれば、1976 年6月26 日、東京・日本武道館で行われたモハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」にとどめを刺す。私は高校2年生だった。土曜日の午後、学校近くの電器屋に仲間たちと飛び込むと、既に黒山の人だかりができていた。その場の全員が固唾を飲んで試合を見守った。
  
 この試合の何が凄いかというと、ボクシングの現役の世界ヘビー級王者をリングに上げたことである。アリは5月にリチャード・ダンを倒し、9月にはアゴを砕かれているケン・ノートンの挑戦を受けることになっていた。タイトなスケジュールを縫うように日本にやってきて「名前も知らない」プロレスラーと一戦を交えるというのだから、心底驚いた。

 試合は3分15 ラウンド制で行われ、結果はドロー。「猪木は寝てばかり」「いやアリこそ逃げ回っているだけ」--よって「世紀の凡戦」という冷めた声が巷にみちる中、唯一、野坂昭如さんの論評は異彩を放っていた。「格闘技のプロが、本気になって喧嘩するのなら、見せ物にはならぬ」。一発当たればアリ、捕まえてしまえば猪木。その道の達人同士の真剣勝負は「見せ物にはならぬ」ということだ。まさに目から鱗だった。

 後年、猪木さんにアリ戦について尋ねると「今でも自分の中には葛藤がある」と苦々しい表情を浮かべて言い、続けた。「アリは一言しゃべれば世界中が耳を傾けてくれる。だけどオレがなにかしゃべっても、誰も聞いてくれやしない。自分だけが取り残されていく虚しさを感じた。しかも莫大な借金まで背負ってしまった。一言で言えば挫折ですよ」
 
 だがアリ戦で得た知名度は、のちに“国益“として返ってくる。90 年8月のイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争に至る過程で、イラクは日本人41 人を「ゲスト」という名の人質としてクウェートから本国に連行する。政府間の人質解放交渉が難航する中、単身乗り込んだのが猪木参議院議員である。猪木さんはイラク政府に「平和の祭典」と銘打ったコンサートやプロレス興行を行うことを提案、この懐柔策が功を奏し、人質解放が実現するのである。

 この頃、私は猪木さんに関する連載を週刊誌に持っており、議員会館に日参した。この件について問うと「キイパーソンはラマダン第一副首相(フセイン政権崩壊後に処刑)だった」と明かした。「最初はとても“人質を解放してくれ“なんて言い出せる雰囲気じゃなかった。そこでオレは800 年ほど前に活躍したジュネード・バグダーディという格闘家の名前を持ち出した。彼は貧しい出の選手に対してはわざと負けてやり、賞金を取らせたという逸話を残している。“一番尊敬する格闘家だ“と告げると“アリと闘ったオマエがそう言うのか。オレたちはその子孫なんだ“と。そこから流れが変わっていったんだ……」。猪木さんにとっては地球もリングだった。
 
 まだまだ聞きたい話は山のようにあった。「巨星、墜つ」と書こうとして手が止まった。清も濁も併せ飲む巨大なる「怪星」墜つ――。猪木さん、お疲れさま。そして、さようなら。

 

<この原稿は22年10月2日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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