戦国時代、「最強の武将」と恐れられた“甲斐の虎”こと武田信玄が上洛戦の途上で絶命せず、織田信長を討ち果たして天下を取っていたとしても「下克上」と呼ばれることはなかっただろう。一説によると信玄の生涯戦績は72戦49勝3敗20分け。勝率、実に9割4分2厘。

 

 それに引き換え、同じ「風林火山」の旗の下で戦いながら、J2ヴァンフォーレ甲府の今季戦績は40戦9勝16敗15分け。振り向けばJ3がすぐ背後にまで迫るという状況が続いていた。そんなローカルクラブが北海道コンサドーレ札幌、サガン鳥栖、アビスパ福岡、鹿島アントラーズ、サンフレッチェ広島とJ1勢を次々に撃破し、天皇杯を手にしたのだから、こちらは紛(まご)うかたなき下克上である。

 

 ピッチで実際に天皇杯を手にした甲府の海野一幸最高顧問は「ずっしりと重かったですね」と感想を口にした。ずっしり、という言葉に20年来の苦節がにじんでいた。

 

「私は葬儀委員長です」。初めての取材、挨拶がわりに海野が口にしたのが、このセリフである。地元紙・山梨日日新聞(山日)の常務取締役だった海野がクラブの社長に就任したのが2001年2月。クラブは4億5000万円の累積赤字を抱え、存亡の危機にあった。山日は主要株主のひとつであり、海野に与えられた使命は「少しでも責務超過(約1億1280万円)を減らして店じまいすること」だった。「実際には、もうつぶれているような状態。しかし02年には日韓W杯がある。その前につぶしてしまっては日本中に山梨の恥をさらすことになる。そこで、W杯が終わるまでは何とかもたせてくれと…」。

 

 延命治療を続けながら、葬式の準備もしておけ――。そう命じられたようなものだ。「任された以上は最善を尽くそう」と覚悟を決めたものの、先立つものがない。「メモ用紙も表裏を使っていましたよ」。

 

 当時の山梨県の人口は約88万9000人、甲府市は約19万2000人。マーケットの規模は小さく、気前のいい旦那衆(大企業)も不在とあっては、ドブ板で営業活動を行うしかない。海野は記者時代の人脈を頼りにトップセールスを開始した。「税金として国に納めるおカネの一部を地元への還元として少し回してください。広告宣伝費で落とせるし、チケットを従業員にあげれば福利厚生費でも処理できます」。また広告費を捻出できない小規模の事業者には物品やサービスの提供を願い出るなど、地域一体となっての支援網を構築した。

 

 かくして甲府は生き永らえ、J1とJ2を行き来しながら、白銀のカップにたどりついたのだ。葬儀委員長から中興の祖へ――。海野の人生もまた「下克上」である。

 

<この原稿は22年10月19日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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