「フランクフルトの空港に迎えに来てくれた彼を見た時、やけに小さな人だな、と思ったよ。ドイツ人はもっと大きいと思っていたからね。ハンチングを脱ぐと髪は薄かった。もう50過ぎかなと…。実際はまだ35歳くらいだったんだけどね」。それが日本サッカーの“中興の祖”である川淵三郎が後に、“日本サッカーの父”と呼ばれるデットマール・クラマーと最初に会った時の印象である。

 

 1960年の夏、川淵は早大の4年生。日本代表強化のためのドイツ遠征だった。「そのままバスに乗り、その足で(デュッセルドルフ近郊の)『デュースブルク・スポーツ・シューレ』というスポーツ施設に向かった。白樺の林に囲まれた施設に、緑の芝生が敷き詰められた8面のグラウンド。宿泊施設もホテルみたいで、見るもの全てが新鮮だったね」

 

 一度、見せてもらったことがあるが、川淵はこの時のドイツ遠征での出来事や感想を、自らが撮った写真とともに、全て日記につけている。このデュースブルクの思い出は、川淵の青春の原風景であり、それを青写真にしてJリーグの構想が練り上げられたことも、今では広く知られている。

 

 60年夏に開催されたローマ五輪出場を逃した日本は、4年後の東京五輪に向け、再スタートを切っていた。協会がドイツ人指導者に白羽の矢を立てたのは、54年スイスW杯で優勝した西ドイツ(当時)のスタイルを多とする、という方針によるものだった。

 

「1+1は2。そんな基本から教えてくれたのがクラマーだった」。川淵は続ける。「スポーツシューレで初めて見たもののひとつに16ミリフィルムがある。フィルムにはW杯の過去の試合に加え、ボールコントロールなどの基本動作もおさまっている。それをクラマーが丁寧に説明してくれる。毎晩、フィルムを見るのが楽しみでね。目で見て覚えたことを翌日、芝生の上で繰り返し練習する。そうやって、ひとつひとつ基本を身に付けていったんだ」

 

 クラマーは厳格な教師であると同時に激情家でもあった。遠征中での出来事。「確かドイツのどこかの地域代表との試合だったと思うんだけど、0対5で負けた。すると試合後“我々、ドイツ人にはゲルマン魂がある。キミら日本人には大和魂があると聞いていたが、どこにあるのか!?”と随分、叱られたね。聞けばクラマーは大戦中、落下傘部隊を率いていたというんだ。彼は怒り方もうまかったよ」

 

 クラマーを抜きにして64年東京五輪でのアルゼンチン撃破、68年メキシコ五輪での銅メダルを語ることはできない。ドイツ戦を前に川淵は言った。「ついに日本もここまできたか。そう言って喜ぶクラマーの顔が見てみたいね。それが日本サッカーからの恩返しになるのかな」。恩師との出会いから62年、故人への恩返しには十分すぎる年月である。

 

<この原稿は22年11月23日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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