大木がこれまで数多くあげた得点の中でもっとも印象に残っているゴール。それはサッカー人生の危機に直面した時期に決めたゴールだ。2001年6月20日、ナビスコ杯2回戦対FC東京戦。サンフレッチェとの契約期間は残りわずかとなっていた。

 その前年、大木は当時J2の大分トリニータへ期限付き移籍をしていた。エースストライカーが背負う「11」の背番号が与えられ、J1昇格へその得点力が大いに期待された。ところが故障もあり、リーグ戦出場はわずかに6試合。プロ入りして初めて公式戦ノーゴールでシーズンを終えた。「きつかった」。その一言で集約される1年だった。

 当然、シーズンオフには非情の通告が待っていた。トリニータだけでなく、サンフレッチェからも戦力外の烙印を押された。他クラブのテストを受けたが、いずれも不合格。大木は故郷の松山に戻るしかなかった。
「ちょうど子供が生まれることもあり、働かなきゃいかんと思いつつも、何も具体的に思いつかなかった」
 まだ24歳。小さい頃からサッカーに明け暮れていた若者である。他の夢や目標がすぐに見つかるわけではない。とりあえずハローワークに行って仕事を探した。「給料がいいのはどこかな(笑)」と……。

 そんな状況を見かねたのか、古巣が手を差し伸べた。ただし、条件は半年間の契約だった。6ヵ月で結果を出さなければ、その先はない。ポジションもFWにこだわっている場合ではなかった。首脳陣の意向もあり、慣れないサイドバックにも挑戦してみた。
「練習試合で入ったんですけど、1試合で失格でした。動きが全く違う。FWの感覚でボールを持つと、前のスペースがすごく空いている気がするんです。それでドリブルばかりしていたら、“前に出すぎや”と怒られました(笑)。DFは後ろを気にしながらプレーしないといけませんからね」
 餅屋は餅屋。これまで相手のPA内で働いてきた人間が、急に自陣のPA内で仕事ができるものではない。結局、出場機会はほとんどなく、残された時間は砂時計のようにサラサラとなくなっていった。

 華々しいデビューの裏で

 大木は高校卒業後、青山学院大に進学したが、1年で中退してプロの門をくぐった。実は高卒時点でもいくつかのJクラブからオファーがあった。しかし、本人には「プロになりたいという気持ちは全然なかった」。
 ところが入学直後にワールドユース予選の日本代表に選ばれたことが、その心を揺り動かす。山田暢久(浦和レッズ)、奥大介(ジュビロ磐田)らJリーガーに交ざり、対グアム戦では1試合で6ゴールをあげる離れ業をやってのけた。「周りがプロでもある程度やれる」。それなりの自信を持ってのプロ入りだった。

「デビューは晴れやかだったんです。初めてのゴールは覚えています。ダイビングヘッドしたら肩に当たって入った」
 加入した95年5月、柏レイソル戦で試合途中からJ初出場。後半21分、盧廷潤のクロスにしっかり反応した。本人曰く、頭ではなく肩で押し込んだゴールだったが、初出場初得点でサポーターの度肝を抜いた。

 しかし、第一印象が強烈であればあるほど、それを維持するのは難しい。「当時は点をとって当たり前という感じでプレーしていました。でも、現実は途中出場ばかり。体力もなくて練習ではヘロヘロになっていました。それでもメンバーに入っているからいいやという甘えがあったと思います。さらに上の段階に到達することができなかった」

 大木は決して気持ちを前面に出してプレーするタイプではない。どちらかというと感情を表に出さず、黙々と仕事をするほうだ。しかし、それは時として「気持ちが弱い」「レギュラー獲りへの意欲が薄い」と受け取られることもあった。度重なるケガもあり、デビュー戦以上のインパクトを与えられないまま、大木はプロ生命のがけっぷちに立たされていたのである。

 なんで点入ったんかな

 そして迎えたナビスコ杯、FC東京戦。大木はひさびさにメンバー入りを果たした。誰に言われなくてもこれがラストチャンスであることはわかっていた。試合はサンフレッチェが後半に追いつき1−1の同点で延長戦に突入した。ただ、後半終了間際に味方がイエロー2枚で退場になり、数的不利で苦しい展開だ。

 この試合、大木はベンチスタートだった。どうしても1点が必要な状況にならなければ、出番は巡ってこなかっただろう。しかし、緊迫した延長戦に入ったことが幸いした。ついにピッチに立つ機会を得たのだ。
 緑の芝の中に足を踏み入れると不思議なことにいつもより体が動いた。交代して早々、力強いシュートを放つ。これはGKにはじかれたが、イメージ通りのボールが打てた。「これはいけるかもしれない」。その予感は現実のものとなる。

 延長後半5分、カウンターから久保竜彦が大木にパスを通す。それを1度、久保に戻すと大木はすかさずゴール前へ。久保もそれを見計らって、ダイレクトで折り返す。2人の息がぴったり合った華麗なボールさばきだ。ボールを受けた大木は相手DFをかわし、そして左足を鋭く振りぬく。次の瞬間、ゴールネットは大きく揺れ、高らかに試合終了のホイッスルが鳴った。それは大木にとって終わりではなく、現役続行を告げる合図となった。直後、大木は契約延長を勝ち取る。

 がけっぷちからチームと自身を救う延長Vゴール。大木は喜びで体が震えていた。
「今でも“なんで点入ったんかな”と思うことがあります。そもそもなんでメンバー入りできたのかもわからない。なんでか体もよく動いた。最後のチャンスをやろうということだったんでしょうね」
 サポーターに初出場初ゴール以上の衝撃を与え、背番号20は首の皮一枚、プロの世界で生き残った。

(最終回へつづく)


大木勉(おおき・すすむ)プロフィール
1976年2月23日、愛媛県松山市出身。ポジションはFW。南宇和高時代は同学年の友近聡朗と2トップを組み、2年時は全国高校サッカー選手権でベスト8入りを果たした。青山学院大を中退し、95年サンフレッチェ広島に入団。デビュー戦(対柏レイソル)で初ゴールを決める。その後は故障に悩まされ、00年には大分トリニータへ期限付き移籍。翌年からは再び広島に復帰した。久保竜彦、佐藤寿人ら日本代表クラスのFWとともにプレーし、その持ち味を引き出すスタイルは高い評価を受けた。07年より故郷の愛媛FCに移籍。これまでのリーグ戦通算成績はJ1で154試合出場28ゴール、J2で52試合9ゴール。177センチ、75キロ。背番号20。






(石田洋之)
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