昨年10月1日に79歳で世を去った元プロレスラーで参議院議員を2期務めたアントニオ猪木さんが叙位・叙勲を受けた。日本人プロレスラーとしては初の栄誉だという。「兄貴も天国で喜んでいると思います」とは、弟の猪木啓介さん。ご同慶の至りである。

 

 政治家としての猪木さんの最大の功績は、1990年9月、単身イラクに乗り込んでの日本人人質41人の解放だろう。今でこそ“平成の英雄譚”だが、当初は冷ややかな声がほとんどだった。「猪木さんの勇気と行動力には敬意を表します。ただ、彼は彼なりのポーズをとっているだけでイラクにいる邦人全員が帰ってくるわけではないし、世界全体の政治を変えるという観点からすれば影響力はゼロに等しいですね」(自民党・柿澤弘治議員、当時)。

 

 余程、悔しかったのだろう。猪木さんは怒りに満ちた口調でこう吐き捨てた。「(政治家でありながら)自分が安全なところにいて、人のとった行動をあげつらう。人間として非常に寂しいというか、心の貧しさを感じざるを得ないね」。

 

 常に在野に身を置き、人がやらないことに挑み、できそうもないことをやってのける。それが猪木寛至という人の一貫した生き様だった。

 

 猪木さんのプロレスラーとしての評価は、既に語り尽くされた感があるが、白眉はヒロ・マツダさんの次の一言だろう。「猪木はホウキと戦っても観客を沸かせることができる」。つまり相手は誰でもいいというわけだ。

 

 たとえば“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シン。来日前はインド古来のレスリングを身につけた本格派という触れ込みだったが、猪木さんによると「レスリングそのものの技術は大したことなかった」。ヒールとしての実績にも乏しく、ナイフをくわえた宣材用の写真を見た猪木さん、「なんか迫力がない。サーベルでもくわえさせてみろ」と凶器の差し替えを命じたところ、これが大ヒットした。

 

 そのサーベルによる攻撃と、コブラクローという名の単なる喉のわし掴みくらいしか技のなかったシンだが、猪木さんは、それを体を張って受け続けた。コブラクローによる喉元からの出血は額からの出血よりもはるかにシュール(非日常的)で、シンの残忍性を浮き彫りにした。猪木さんとの出会いがなければ、シンは使い勝手の悪いホウキのままだったろう。

 

“不沈艦”の異名で恐れられたスタン・ハンセンも猪木さんが育てたようなものだ。全日本プロレスのリングに上がっていた頃は“でくのぼう”だったが、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノの首を骨折させたことで名を上げた。実はボディスラムの失敗によるリング禍だったが、事故が事件になるのがプロレスである。

 

 猪木さんはハンセンのダウンスイング気味のウエスタン・ラリアットを真正面から受け続け、馬力だけが売り物の元フットボーラーをメインイベンターへと成長させた。このように猪木さんには名伯楽の一面もあった。追記しておきたい。

 

<この原稿は23年1月18日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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