WBCのカードで最も熱を帯びるのが日韓戦だ。大会前に、その原点を探ってみたい。

 

 サッカーにおける日韓戦の原点は、1954年スイス大会のアジア地区予選である。韓国の李承晩大統領は代表チームを日本に送り出すにあたり、「負けたら玄界灘に身を投げろ」と檄を飛ばした。日本統治の時代が終わって、まだ9年。韓国にとってサッカーはアイデンティティーの拠り所であると同時に、人心を慰撫するツールでもあったのだ。

 

 野球における日韓戦の原点は63年、ソウルで行われた第5回アジア選手権である。日本の4連覇を阻止し、初優勝を果たしたのが開催国の韓国だった。

 

 この時の韓国の盛り上がりを知る当事者に話を聞いた。エースの申鎔均である。日本戦2試合に先発し、いずれも完投勝ち(5対2、3対0)。初優勝の立役者となった。「舞台となった東大門野球場は入場できない人であふれ返っていた。その人たちはラジオを耳にあてながら、一投一打に歓声をあげていたんです。相手が日本ということもあり、野球で韓国がひとつになった初めての瞬間でした」

 

 日本は、同年の都市対抗野球を制した積水化学(京都市)を中心とする、いわば社会人選抜チーム。一方の韓国も申によると「韓国の社会人選手と在日韓国人」の選抜チーム。兵庫県生まれの申は、社会人野球のヤシカでは平山茂雄という日本名でプレーしていた。大会前に大韓通運という韓国の社会人チームに移籍し、祖国のエースの座を射止めた。

 

 さて優勝してからが大変だった。「議長が待っている。すぐに来なさい」。議長とは61年、軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任していた朴正煕。後の大統領である。「ユニホームのままでは失礼です。正装に着替えさせてください」。申はそう懇願したが、秘書は一顧だにしない。「議長は今すぐ会いたがっている。わからんのか」

 

 向かった先は三星財閥(現サムスングループ)の会長の別荘。朴は選手ひとりひとりと握手をかわし、やがて申の番がやってきた。日本生まれの申は韓国語がわからない。それを知っている朴は、日本語で語りかけた。「何か希望するものはありますか」。驚くほど丁寧な口調だった。申は怖くて視線を合わせることができなかった。周囲は全て軍人だ。「できるなら、東大門野球場にナイター設備をお願いします」。声が震えるのが自分でもわかった。「よろしい」。数日後、工事の槌音が球場から聞こえてきた。

 

 朴正煕の日本名は高木正雄。申は言う。「あの方は日本の陸軍士官学校を出ています。野球が大好きで、しかも詳しかった。決勝戦も観に来ていた。絶対に勝てないと思っていた日本に野球で勝った。それが余程うれしかったのでしょう。以来、国を挙げて野球に力を入れるようになり銀行系と企業系、2つのアマチュアリーグが誕生したのです」。謎多き独裁者の、知られざる一面である。

 

<この原稿は23年1月25日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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