あの衝撃の春から、ちょうど50年が経つ。1973年3月27日は、歌人の俵万智風に言えば「エガワ記念日」である。

 

 ところで半世紀前の経済状況は、恐ろしいほど現在と似ている。第4次中東戦争に端を発した石油価格高騰により、「狂乱物価」なる造語が登場、事態は翌年初頭、さらに深刻化した。50年後の今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を契機としたエネルギー価格の高騰は、この国にも記録的な物価高をもたらしている。

 

 半世紀前と今とで大きく違うのは、情報伝達のスピードと、その精度である。当時はインターネットなど夢のまた夢の世界の話、家庭用のVTRすら、一部にしか普及していなかった。北関東以外の野球ファンが、「怪物」の情報を得るには、活字に頼るしかなかった。

 

 高2の秋季大会(栃木県大会と関東大会)で作新学院の江川卓が残した数字は、にわかには信じられないものだった。7試合全勝、53回投げて失点0。奪三振94、奪三振率16.00。公式戦53回連続無失点。プロ野球のエース級が高校野球に混じっても、ここまでの成績を収めるのは至難の業だろう。

 

 なぜか覚えているのは女性誌に掲載された「好きなタイプは小柳ルミ子」という記事。「そうか江川も『瀬戸の花嫁』を聴いているのか…」。四国の片田舎の中学生は、“まだ見ぬ怪物”のイメージを際限なく膨らませたのだった。

 

 そして迎えた3月27日、江川擁する作新は、初日の第1試合に登場する。相手は出場校中最高のチーム打率を誇る大阪の強豪・北陽。エースは卒業後、近鉄に入団する有田二三男だ。

 

 初回、北陽はいきなり3者連続三振。初めて江川のボールをバットに当てたのは5番の有田。23球目、擦過音を発した打球はバックネットへ。この瞬間、スタンドから大きな拍手が巻き起こった。長いこと高校野球を見てきたが、かすっただけで拍手が起きたのは、後にも先にもこの時だけだ。結局、19奪三振で4安打完封。まるで子どもの中に大人がひとり入って野球をやっているような印象を受けた。

 

 この大会、作新は準決勝で広島商に敗れ、姿を消すのだが、江川が4試合で記録した60奪三振は今もセンバツ記録である。多くの打者をして「手元で伸びてくる」と言わしめたストレートは、本人よると、「スピンをかける時に指を引く。ギューンと回転を与える」ことによって出現する、いわば“ホップする魔球”だった。

 

 12年前に行ったインタビューでは、「1年の秋、前橋工(群馬)相手に10連続三振を奪った時、投げたボールがヒューッと浮いていくのが(マウンドから)見えた。ボールが“浮く”というイメージを具体的に持った初めての瞬間だった」と語っていた。

 

 颯爽たる甲子園デビューから50年。個人的には、始球式のマウンドに立つ怪物が見てみたい。この半世紀で甲子園を取り巻く景色は、どう変わったのか。江川流に言えば「たかが50年、されど50年」か……。

 

<この原稿は23年3月1日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから