連日にわたって1面を独占する大谷翔平にとって、日の丸のユニフォームを着てWBCに出場することは、「野球人生の中で叶えたい目標のひとつ」(侍ジャパン公式サイト)だという。大谷のコメントを持ち出すまでもなく、5回目を迎えるWBCの価値は、回を重ねるごとに高まっているように感じられる。同時にそれは野球日本代表のステータスの向上をも意味している。「侍ジャパン」の呼称も随分、根付いてきた。

 

 代表ブームの先駆けは、1992年に結成されたサッカーのオフト・ジャパンである。目標にしていた94年米国W杯出場こそ果たせなかったものの、93年に開幕したJリーグ人気とも相まって大ブームを巻き起こした。米国行きの夢が潰えた“ドーハの悲劇”の視聴率は、深夜にもかかわらず50%近い数字を記録した。

 

 とはいえ、代表の老舗であるサッカーも、昔からナショナルチーム=代表だったわけではない。古くは「全日本」だった。68年メキシコ五輪銅メダルメンバーの松本育夫の著書『燃えてみないか、今を!』(ぱるす出版)に、こんな記述がある。<釜本(邦茂)の実力は既に全日本クラスであった>。今なら「代表クラス」と書くだろう。

 

 では、いつから「全日本」は「代表」に衣替えしたのか。88年、代表監督に就任した横山謙三は、後にJリーグブームの火付け役となるラモス瑠偉や三浦知良を初めてナショナルチームに招集した指揮官として知られるが、この頃は「代表」と「全日本」の表記が混在していた。サッカーが「全日本」と決別し、「代表」に統一されたのは、私が知る限りではオランダ人のハンス・オフトが監督になってからだ。

 

「そのサッカーの影響が大きかったと思います」。そう語るのは、バレーボール日本女子代表監督の眞鍋政義だ。2021年10月、2度目の監督に就いた。協会は18年まで「全日本女子」を正式な名称に定めていたが、19年から「女子日本代表」に変更した。それにより、前回とは肩書きもかわった。「最初は違和感がありましたよ。バレーボールはずっと全日本でやってきましたから」

 

 ラグビーも、その昔は「全日本」だった。68年6月4日、ニュージーランドのウェリントンでオールブラックス・ジュニアを撃破したナショナルチームの一員である堀越慈は、その試合の始終を自著『だから、ラグビー 素晴らしき男たちの世界』(集英社)に綴っている。改めて読み返すと、書き出しは<私たち全日本は>である。やがて、ファンの間では「ジャパン」という呼称が定着し、それはラグビーの唯一性の表徴のようにも感じられ、個人的には好きだった。今も私は、許される範囲で「ジャパン」と書いている。

 

 多様性の時代である。正式名称はともかく、呼称は競技によって「様々」でいいのではないか。辻元清美議員に「ごまかさないでください」と叱られそうだが…。

 

<この原稿は23年3月1日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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