ずっと動向が気になっていた。

 

“黄金世代”の一人、本山雅志のことだ。2021年にマレーシア2部のクラブでプレーすることが報道されて以降は入ってくる情報も少なくなっていた。すると鹿島アントラーズ-サンフレッチェ広島戦(4月1日)の試合前イベントに登場し、慣れ親しんだカシマスタジアムでファン、サポーターに現役引退の意思を表明したという。43歳、24年にも及ぶプロキャリアに終止符を打った。

 

 天才という表現がよく似合うプレーヤーだ。

 

 東福岡高の大黒柱として史上初めてインターハイ、全日本ユース、高校選手権の3冠を達成して、まさに鳴り物入りで1998年に小笠原満男、中田浩二らとともに鹿島アントラーズに入団した。翌1999年、ナイジェリアで開催されたワールドユース(現在のU―20ワールドカップ)では準優勝。小野伸二とともに大会のベストイレブンに選ばれ、タレントぞろいのチームのなかで主役級の活躍を見せたのだった。

 

 独特のリズムとタッチですり抜けていくドリブラーは2002年以降ジーコ、レオナルド、ビスマルクらがつけたアントラーズの10番を託され、攻撃の中心としてチームを引っ張っていく存在となっていく。日本代表としてもワールドカップこそ縁はなかったものの、ジーコ体制では継続的に招集されて国際Aマッチ28試合に出場している。

 

 輝かしい実績の裏で、苦悩もあった。本山を語るにおいて、引退危機にさらされた病気との戦いはやはり避けては通れない。

 

 リーグ2連覇が懸かった2008年シーズン。本山はリーグ戦、ACLとフル回転で働いていたが、腰付近の違和感が拭えないようになっていた。リーグが中断した6月に精密検査を受けると「先天性水腎症」と診断された。血管が尿管を圧迫していたことで右腎臓の機能が著しく低下。尿路が妨害されるため、水分を入れると腎臓が膨張してしまう。それが痛みのもとになっていた。

 

 のちに本山はこう明かしてくれた。

「右の腎臓がほとんど機能していないとお医者さんに言われたんです。手術しないでこのまま放っておくのは、良くないと。もう、びっくりしましたよ」

 

 医師と話し合ってシーズンを終えてから手術をすることに決めた。ただ「腎臓になるべく負担を掛けないように」とクギを刺された。

 

 オズワルド・オリヴェイラ監督ら数人にだけ病状を伝え、チームメイトには明かさなかったという。

 

「左の腎臓は機能していたので、生活する分にはさほど問題はなかったんです。水分を飲むときに“左のほうに入ってくれよ”って、左に体を傾けたりして。でもサッカーではそうもいかない。水分を飲んで(腎臓が)膨れた状態でバーンと当たると破裂する可能性も言われていました。だから極力、水分を摂らないようにしていましたね」

 

 もし左まで機能が低下してしまえばサッカーを続けていくことはできない。夏の暑い時期でも、汗や尿で出ていく分を頭に入れながら最小限の補給にとどめた。慎重に慎重を重ねて日々の生活を送った。

 

「日ごろから摂生に努めていましたし、腎臓を膨らませないことに気をつけていました。ただ水分を摂らないと、どうしても筋肉に影響が出てしまうんです。そうなると、試合で足をつってしまう。それでもシーズン最後まで、何とか持ちこたえることができたんです」

 

 いつもと同じようにキレのあるドリブルを繰り出し、ハードワークも欠かさない。シーズンをフルで戦い抜き、その結果リーグ2連覇をもぎ取ることに成功した。最大の試練を乗り越えたうえでの栄光であった。シーズン終了後に8時間に及ぶ手術を実施。普通に水分を摂ることができるようになった。

 

 ケガとの戦いもあった。2010年には腰椎椎間板ヘルニアの手術を行ない、その影響もあってコンディションが万全とは言えないシーズンが続いた。それでも復調して2013年は4年ぶりに20試合以上の出場を果たしている。

 

 2016年に地元のギラヴァンツ北九州に移籍。右ひざの大きなケガが相次ぎ、2019年シーズン限りで退団したが、現役にこだわった。1年のブランクを経て、マレーシアへと渡ったのだった。

 

 病気にも、ケガにも彼は屈しなかった。

 いつの日だったか、彼はふと言った。

 

「あきらめないっていう気持ちも強くなったし、随分と我慢強くもなりましたよ。苦しんできたことは間違いなく自分の力になりました」

 

 天賦の才を持つ人は、不屈の精神を持つ人。それが本山雅志というプレーヤーの真の姿であった。


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