Jリーグを運営する社団法人日本プロサッカーリーグが発足したのは、新リーグ開幕1年半前の1991年11月のことだ。初代チェアマンには剛腕で鳴る川淵三郎が就任した。この時期は、いわば日本サッカーにおける夜明け前。

 

 空は夜明け前が最も暗い――。こんな言説がある。天文学上、これはどうやら正しくないようだが、広く人口に膾炙している。

 

 さて川淵が初代チェアマンに就任した頃、誰が協会の最要職にあったか。30年も経てば記憶は薄れる。

 

 第6代会長・藤田静夫。理事、副会長を経て87年、会長に就任し、92年まで務めた。2005年に日本サッカー殿堂入り。JFAのサイトには<日本代表選手団団長として数多くの国際試合に帯同するなど、強化現場を盛り立てた>と記されている。

 

 92年1月27日、藤田の姿はマレーシアの首都クアラルンプールにあった。バルセロナ五輪アジア最終予選。総監督という肩書きの横山謙三率いるU23日本代表はU23韓国代表に0対1で敗れた。後半、日本は防戦一方となり川淵は「何とか引き分けてくれ」と祈ったが叶わなかった。結局、日本は6チーム中5位に終わり、五輪出場を逃した。

 

 試合後、暗い表情の川淵に向かって、藤田は言った。「川淵、なんでロッカールームに行かないの?」。川淵は91年3月に代表強化の責任者である強化委員長に、7年ぶりに復帰していた。「いやぁ…」。返事に窮する川淵に、藤田は詰め寄り、語気を強めた。「勝ったんだから褒めてやれよ」。

 

 川淵は開いた口が塞がらなかった。助け舟を出したのが副会長の島田秀夫(第7代会長)。「会長、日本は負けたんですよ」「エーッ!」。会話は、そこで途切れた。

 

 川淵の述懐。「結果的に藤田さんは90分間、ずっと青のユニホーム、すなわち韓国を応援していた。選手の顔とか知らないから、ユニホームの青い色だけを見て、日本と韓国を取り違えてしまったんだ」。ウソのようなホントの話である。

 

 川淵は続けた。「僕だってユニホームの色が変わった当初は、“えぇ、なんで日本が赤を着ているの。赤は韓国と中国じゃないの?”と戸惑ったよ。横山総監督が“日の丸の赤がいい”と言って独断で決めたようだけど、理事会でそんな提案はなかった。日本のユニホームは代々、青が基調。それで僕が理事会で提案して元に戻した。赤のユニホームなんて絶対に認めないってね」

 

 青から赤へのユニホームの色の変更は、日本サッカーがアイデンティティを喪失しつつある表れでもあった。組織として何を変え、何を守るか。川淵はまず、そこを明確にした。それ以前は代表監督が強化委員長も兼務していた。「首に鈴をつける人間とつけられる人間が同一人物」。迷走の象徴が赤いユニホームだった。

 

 休館になる前、日本サッカーミュージアムには歴代の代表ユニホームが展示されてあった。ひときわ目を引く1枚の赤いユニホームは、もがき苦しむ夜明け前の日本サッカーの窮状を赤裸々に伝えていた。

 

<この原稿は23年5月17日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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