「コーチはね、そのチームで一番下手くそな選手と仲良くせにゃいかん」。それが、さる11日、90歳で世を去った中西太の持論だった。「なぜですか」と私。「(意識の)進んでいる子はギャアギャア言わんでも、ひとりでやります。ところが下手くそな子が上達すると、他の選手たちも私の言葉に耳を傾けるようになる。するとチーム全体のレベルが上がってくる」

 

 生前、取材で渋谷区初台の自宅によくお邪魔した。話に熱が入ると、私のような素人にもバットを構えさせ、「前の肩が落ちてはダメ。これをショルダーダウンというんだ」。「大事なのはフォー・アイズ。手の甲にも2つ目がついていると考え、4つの目でボールを見るように」。「体はクイックターン、そうそうクイックターン」。独自の横文字を交えて手取り足取り指導して頂いた。乗せるのがうまかった。

 

 夏の暑い日は、ランニング姿になり、取材はいつの間にか補講に。私に対し「あんたも脱ぎなさい」。見かねた傍らの編集者が「この人に教えたところで一文にもなりませんよ」と茶々を入れると「キミも脱ぎなさい。草野球でもヒットが出んとおもしろくないやろう」。来る者は拒まず、去る者は追わず。修行者に上下なし。禅の心得にも通じる大道無門の中西道場だった。

 

 現役時代の身長は公称174センチ。豆タンクのような体ながら、誰よりもボールを遠くへ飛ばした。平和台球場で放った162メートルのホームランは今も語り草だ。3冠王3度の落合博満がロッテ時代の先輩・土肥健二のバッティングを参考にしたように、中西にも、“陰の師匠”がいた。巨人などで活躍した平井三郎である。「プロ1年目のオフ、母校(高松一高)に顔を出すと同じ四国(平井は徳島商高)の縁で香川まで教えにきてくれていた。あの人は背が小っちゃい(公称167センチ)のに、ものすごく飛ばす。見ると内転筋を使ってレベルで振っている。あぁ、こういう打ち方がいいんだと…」

 

 ある日、意を決して訊ねた。「これはもうモノにならない、とサジを投げかけた選手は?」。中西があげたのがヤクルト時代に教えた八重樫幸雄だった。超高校級捕手との鳴り物入りで、70年、仙台商高からドラフト1位で入団したが、ブレークまでには時間がかかった。

 

「彼は体が硬いから、どうしても外の変化球が打てない」。そこで中西は荒療治を施す。大胆なオープンスタンスを試したのだ。「はじめから体を開き、投手と正対に構えさせた。こうすれば、ポイントが体の近くになる。外の変化球は引きつけて打つのが基本だから、ちょうどいい。周囲からは邪道だと言われたが、彼は僕を信じて必死にやってくれた。僕は指導者という言い方が、あまり好きじゃない。(選手との)共同作業なんだよ」

 

 83年、八重樫は自己最多の97試合に出場し、これまた自己最多の16本塁打を記録した。“怪童”から名伯楽へ―。尊ぶべきは中西の在野精神だろう。合掌

 

<この原稿は23年5月24日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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