モハメド・アリの自伝を読んだことがきっかけでアリのファンになった者は、ほとんどいないだろう。同様に、たまたま長嶋茂雄の自伝を読み、長嶋に興味を持ったという者も、まずいないはずだ。

 なぜ、あのような動きができるのか。なぜ、あそこで、倒せるのか。あるいはタイムリーを打てるのか。人智を超えたパフォーマンスを目にした時、私たちはそのプレーヤーについて深く知りたくなる。この男は、いったい何者なのかと―――。

 

(この原稿は講談社『マネー現代』で2023年6月21日に発表したものです)

 

「夢剣士」惠土孝吉とは、いかなる人物なのか。拙稿をお読みいただく前に、折り入ってお願いしたい。動画サイトに「惠土孝吉 川添哲夫」と書き入れて検索して欲しいのだ。そこで目にするモノクロの画像は、今でいうところの“お宝映像”である。

 

 1972(昭和47)年5月3日、剣道都道府県対抗戦。本書によると、放映はNETテレビ(現・テレビ朝日)で5月5日の午後2時から午後3時25分まで。舞台は大阪市中央体育館。準決勝第2試合の次鋒戦。惠土は愛知県、川添は高知県の代表だ。

 

 前年12月、国士舘大学4年の川添は全日本剣道選手権大会で初出場初優勝を果たしていた。大学生が全日本選手権を制したのは、これが初めてのことだった。

 

 この時、22歳。卒業後、高知学芸高校の教員になっていた。一方の惠土は32歳。中京大学では、2度全日本学生選手権(個人)を制し、母校で後輩たちの指導にあたっていた。

 

 まず目を引くのは身長差である。川添が178センチと長身であるのに対し、惠土は157センチと小柄。双手上段の川添、対する惠土は片手上段。要するに竹刀を左手1本で持ち、右手は鍔迫り合いの時にしか使わない。場内からどよめきが起きたのは、惠土の片手上段を予想した者がいなかったからだろう。

 

 本書で惠土は語っている。

「当時の川添さんには中段では勝てないという思いがあったので、それなら片手上段でいこうと決めたんです」

 

 苦肉の策だったのか。惠土の弟子筋にあたるインタビュアーの「游剣士」が一歩、踏み込む。

「中段で勝てないというお気持ちがあったのには違和感があります。(中略)その佐山さんの上段に先生が勝てないというイメージはなかったのではないでしょうか」

 

 佐山さん、とは全日本剣道選手権決勝で川添が勝利した佐山春夫のこと。中京大学出身の上段の名手として鳴らした。惠土は川添よりも佐山の方が実力的には上だと見ていた。

 

 ならば、わざわざ片手上段に構える必要はなかったのではないか、とインタビュアーは言いたいのだろう。間合いを詰められた惠土の答えは、こうだ。

「確実に勝つためには片手上段しかないと思いました」

 

 苦肉の策のように見えた片手上段、実は「確実に勝つ」ための選択、すなわち必勝法だったのだ。

 

 両者1本ずつ取り合い、試合は延長へ。川添は距離を詰め、鍔迫り合いに持ち込もうとする。体格、体力で圧倒する作戦か。

 

 それにしても驚くのは、惠土の無尽蔵のスタミナだ。余程の腕力がなければ、片手上段に構え続けるのは困難だろう。いや、ただ構えるだけではなく牛若丸のように素早く動き続けるのだ。それを支える強靭な下半身が、袴の下ではフル稼働しているに違いない。

 

 離れてよし、接近してよし。私の脳裡に浮かんだのは全盛期のファイティング原田だ。

 

 1965年5月18日、愛知県体育館で原田が50戦無敗のボクシング世界バンタム級王者エデル・ジョフレからベルトを奪った試合と重なった。原田のニックネームは“狂った風車”。どこから手が出てくるかわからない。

 

「僕は10年間の現役生活で、地球を2、3周するくらい走ったんだ。連打の時は無呼吸になるから、心肺が強くないと攻め続けられないんだ」という話を原田から聞いたことがある。無尽蔵のスタミナは精進の賜物だったのだ。

 

 愛知県出身の惠土が、この試合を観ていたかどうか定かではない。しかし、以下のコメントを読む限りにおいて、惠土が原田のボクシングを剣道に取り入れたことは間違いあるまい。

 

「実は僕がフットワークの参考にしたのはファイティング原田なんですよ。大学を卒業したころテレビでファイティング原田の試合を見ていて、あんなふうに足を使いたいと思いました」

 

 惠土の驚異的な動きとセンス、そしてストイックな生活ぶりを持ってすれば、仮に甲手のかわりにグローブをはめていたとしても、間違いなくボクシング軽量級の名世界王者になっていただろう。

 

 閑話休題。試合に戻ろう。延長での攻防は文字通り死闘の様相を呈する。インタビュアーが鋭く切り込む。

 

「川添さんが諸手で右横面を打ったあとの攻防が圧巻です。近間から先生が左小手、右小手と連続で打ち、体を左右にさばきながら機を見て引き面、さらに小手の連続。息もつかせぬ攻撃です。速い。そのあと先生が体を左右にさばき、相手の竹刀を右から左から摺り落とすようにしていきます。

 このあたり、杖道の技ではないでしょうか。川添さんも危うく竹刀を落としそうになっていますが、よく持ちこたえたという印象です。最後のあたり、先生が三本連続で面を打っていきますね。これも一本取るための面ではなく、小手を打つための布石ですか」

 

 惠土はこう答えた。

「そうです。一本取ろうとは思っていません。あくまで左小手で決めるための戦術です」

 

 果たして、その通りになった。惠土は面を打つことで、川添の腕の位置を高く保たせ、踏み込もうとするところに小手を見舞ったのだ。3手先、いや5手先まで読んでの布石だった。

 

 この伝説の試合で、惠土は「規定ギリギリの竹刀」を使っている。当時の規定は485グラム以上。重いと片手上段を維持することができない。さらには「鍔の下に包帯を巻いた」という。「鍔が下がってこないように、そして少しでも竹刀を軽くするため」に工夫を凝らしたのだ。

 

 試合会場の下見も怠らなかった。太陽の動きはどうか。会場によっては午後になると、西日が差し込むところもある。まぶしい西日を視界から遠ざけるには、どの位置で戦うか。惠土にとっての試合は戦う前から始まっていたのである。

 

 惠土の戦績は輝かしい。先述したように学生選手権優勝2回、全日本選手権準優勝1回、3位3回。身長のハンデをものともしなかった。

 

 指導者としても創部間もない中京大学を全国屈指の強豪に押し上げ、さらには東京大学を5年連続全日本出場、金沢大学を全国ベスト8に導いた。スポーツの世界には「名選手、名伯楽に非ず」という言葉があるが、名選手が名伯楽たりえた稀有な例であったとも言えよう。

 

 478ページからなる大作を読み終え、胸に重く響いたフレーズがある。参加した講習会で「とにかく正しい剣道をしなければいかん」と語気を強める剣道界の大御所に向かって、惠土は質問する。

 

「先生、正しい剣道というのはどういう剣道ですか」

 

 言葉に窮した大御所は「正しい剣道、正しい剣道」と繰り返すのみで、さっぱり要領を得ない。言うに事欠いて、最後に口にしたのが「大きくふりかぶって面を打つことだ!」

 

 過去には、そんな時代もあったのだ。思索の放棄であり、探求の没却である。令和の今、反骨の剣道家のお弟子さんたちは、“惠土イズム”を後進たちにどう伝えているのだろう。そんな興味がふっと湧いてきた。

 

 

『夢剣士 自伝』

(左文右武堂/定価2970円/惠土孝吉著)

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