生成AI(人工知能)に関するニュースを目にしない日はない。もはや賛成か反対かという段階はとうに過ぎ、権利侵害を引き起こさないよう、どうルールを整備していくか、規制の網をかけていくかに論点は移りつつある。

 

 個人的には、生成AIが社会に深刻な害を及ぼさないのなら、これまで人間がやってきた諸作業は、そちらにお任せし、人間はもっと人生を楽しむことに集中した方がいいのではないかと思う。そうすることで満ち足りた時間を取り戻すことができれば、不毛な争い事も少しは減るだろう。AIの普及に伴って増える可処分時間は、ぜひスポーツに充ててもらいたい。

 

 言うまでもなくスポーツという言葉は、ラテン語の「deportare」(デポルターレ)に源を発する。気晴らしや遊び、余暇が本当の意味だ。教育のくびきから逃れ、原点に回帰できるまたとないチャンスと考えるべきだろう。

 

 この間、生成AIに関する論評をいくつか読んだ。門外漢なりの解釈だが、生成AIは「知能の拡張」ではあっても「知性の拡張」、ましてや「理性の拡張」ではない。腹にストンと落ちたのは、新進気鋭のドイツ人哲学者マルクス・ガブリエルの次の論評だ。<チェスや囲碁でAIがプロ棋士に勝利を収めたとしても、それは人間が生み出したゲームで機械が優れたプレーをしたにすぎない。AIにチェスや囲碁を発明することは不可能だ。機械は自立的には何もできない。そこに限界がある>(日本経済新聞7月14日付)

 

 昨今、スポーツの分野でのAI活用は目覚ましいものがある。データに基づく戦略の立案は何も今に始まったことではないが、ビッグデータを一瞬にして解析できるAIは、とりわけスポーツと相性がいいようだ。実際、競技を問わずフォーメーションの最適化やフォームの修正がAIによって図られ、いくつものチームや個人が成績の向上につなげている。

 

 それはそれで大変、結構なことだ。だが、少し視点を変えれば、それはガブリエルが言うように、<人間が生み出したゲーム>で、AIが人間の力を借りて<優れたプレーをしたにすぎない>。AIがスポーツを発明することは不可能だ。

 

 過日、オンラインによるFC今治支援持株会特別ミーティングに出席し、岡田武史会長に生成AIについて質した。岡田がクラブのオーナーとなって9年、「次世代のため、物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会創り」の理念は着実に実を結びつつある。手づくり感あふれる「今治里山スタジアム」も、この1月に完成した。

 

「AIの新しい動きは拒否しない」と断った上で、岡田は「ウチは人と人の感情が共有できるコミュニケーションづくりを、より大切にする」と語った。我が意を得たり。

 

 この国には「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」ということわざがある。AIと人間の関係、あるいはAIとスポーツの関係が、絶対にそうならないと言い切れる自信が、まだ私にはない。

 

<この原稿は23年7月19日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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