現役時代、守備の名手として鳴らし、引退後は複数の球団でコーチを歴任、オリックスの監督も務めた森脇浩司には、今も自室の机の引き出しに大事にしまっている写真がある。今月20日、30回目の命日を迎えた津田恒実(広島)とのツーショットだ。

 

 写真の2人は、ともにTシャツと短パン姿。津田は自炊用のナベを持っておどけている。「これは1985年のオフ、フロリダのウインターリーグに参加した時のもの。この頃の津田は(血行障害からの)復活を目指していた。彼は常に、目いっぱい投げようとするので“極端に緩いボールを交えてみたらどうや”とアドバイスした。するとファウルになっていた真っすぐで空振りがとれるようになった。緩急がついたことで相手はただでさえ速い真っすぐを、より速く感じるようになった。津田にとっては自信を取り戻すきっかけになったウインターリーグでした」

 

 翌86年、津田はクローザーとして甦り、カムバック賞を受賞する。ランディ・バース(阪神)には、全球ストレート(3球三振)で挑み、前年の3冠王をして「クレージー」と言わしめた。逸話はまだある。フルスイングした巨人の主砲・原辰徳に深手を負わせた殺気を帯びたストレート、あれは獲物に襲いかかる猛禽そのものだった。

 

 84年に森脇は近鉄から広島に移籍した。同学年の津田とはキャンプ中に打ち解け、程なくして肝胆相照らす仲に。遠征先で津田は登板後、必ず森脇の部屋をノックした。「今日のオレ、どうだった?」。強気なピッチングとは裏腹に、メンタル面はガラスのように繊細だった。「素晴らしかったよ。小さいことは気にするな」。そう言って肩を叩くと、ニコッと笑って部屋を出ていった。

 

 津田が森脇に体の異変を訴えたのは91年3月。森脇は87年途中にトレードでホークスに移っていた。福岡でのオープン戦後、2人は食事をともにした。その席で津田は心友に弱音を吐いた。「最近、疲れがとれない。体がどこかおかしいんや」。脳腫瘍であることが判明したのは、この1カ月後。「持って年内いっぱい」。医師の余命宣告を、森脇は津田の家族とともに聞いた。

 

「あれは忘れもしない12月24日、クリスマスイブでの出来事」。サンタから森脇に思いがけないプレゼントが届く。「津田が退院できるというんです。僕は彼が入院していた済生会福岡総合病院に迎えに行き、連れ立って隣の大丸に出かけました。ひとり息子のプレゼントを買うために。おもちゃ売り場で、あれがいい、これがいいと……」。この奇跡的に生まれたひだまりのような時間は、しかし、長くは続かなかった。2年後の7月20日、津田は静かに息を引き取った。まだ32歳だった。

 

「今の僕ができるのは、彼のことを語り継ぐこと。30年以上前、魂という名のボールを投げ続けた男がいたんだよって……」。地方球場のスタンドで、高校野球の地区予選を見ながら、そう語る森脇。今も亡き友とともに生きている。

 

<この原稿は23年7月26日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから