「もう称賛の言葉は底をついた」。さる7月28日(日本時間)に行われたタイガース戦のダブルヘッダー、最初のゲームで完封したエンゼルスの大谷翔平は、45分後に始まった第2試合で2打席連続ホームランを記録した。その際に発したアナウンサーの一言がこれだ。

 

 逆に言えば、これ以上の「称賛の言葉」は他にない。表現のプロが「もうお手上げだ」とばかりに白旗を掲げたのだ。やれ興奮しただの、感動しただの、驚愕しただのとまくしたてれば、かえってシラける。あの一言は、アナウンサーのファインプレーだった。

 

 先の言葉に、もうひとり該当するパフォーマンスを披露した選手がいる。さる7月25日、スーパーバンタム級のデビュー戦で、WBC&WBO2団体統一王者のスティーブン・フルトン(米国)を8回にフィニッシュし、2つのベルトを手にすると同時に、日本人2人目の4階級制覇を達成した井上尚弥だ。

 

 試合前、井上は次のように試合を展望した。「フルトンは自分のボクシングを理解している。試合が始まれば、逃げるフルトン、追う井上という展開になる。相手は真っ向勝負はしてこない。それを引っくり返すのはパワー。自分のステップインが速いか、フルトンのバックステップが速いか。1回から3回までが勝負」

 

 こと井上の試合に関して、解説者はいらない。彼は誰よりも己を知り、敵を研究している。「彼を知り己を知れば百戦殆からず」とは孫子の兵法書の一節だが、まさにこれである。

 

 果たして、試合はその通りの展開をたどる。1回、井上が身長で4センチ、リーチで8センチ上回るフルトンに、ボディ目がけてジャブを突いたのは、アグレッシブな姿勢を示すとともに距離感を掴むためでもあったろう。顔面に比べて標的の大きいボディならミスショットも少ない。

 

 圧巻だったのは2回だ。ボディへのジャブでフルトンとの距離を掴み切った井上は、ジャブの発射台の角度をほんの少し仰角に修正した。これにより、速射砲のようなジャブがフルトンの顔面を正確にとらえ始めた。

 

 井上のジャブは速くて重い。ビールのCMではないが、キレもコクもある。21戦無敗のキャリアを誇るフルトンでも、それは未知の体験だったはずだ。

 

 井上のジャブが相手にもたらす衝撃――たとえて言うなら、それは熱湯のようなものか。軽量級王者の、平均的なジャブの“温度”を、仮に50度としよう。しかし、そこは強打で鳴る井上だ。60度はあるかもしれないと、恐る恐る湯船に足を踏み入れた瞬間、想定をはるかに上回る100度だったらどうなるか。その時点で戦意喪失だろう。

 

 3回以降のフルトンの及び腰は、彼が怖気付いたからではない。熱湯を浴びたショックで踏み込めなくなってしまったのだ。そこから先は逃げるフルトン、追う井上――。モンスターの異次元の強さを前に、こちらの言葉が追いつかない。

 

<この原稿は23年8月2日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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