第1118回 風化より救いある戦争報道の「風物詩化」
原爆の悲惨な記憶を後世に伝え、慰霊の意を表し、恒久の平和を祈る「ピースナイター」は、被爆地の球団・広島カープにとって特別な試合である。
「6日の巨人戦はテレビで見とりましたよ。もう足が悪うて、球場まで行けんようになったから。情けない負け方(0対13)で見ておれんかった。(高校の)後輩の新井(貴浩監督)には期待しとるもんでね」
そう語る長谷部稔は、広島カープ第1期生48人のうちのひとり。今年の10月で92歳になる。10年前まで球団のOB会長を務めていたが、後輩の安仁屋宗八に譲った。
今から78年前の8月6日午前8時15分、広島市内に米軍の原子爆弾が投下された。爆心地は島病院の上空。その時、広島県立広島工業学校(現県立広島工業高)2年生の長谷部は、爆心地から約10キロ離れた矢野川(現広島市安芸区)の自宅にいた。
「家の奥にまで光が入ってきて、びっくりしました。慌てて表に飛び出したら、爆風に吹き飛ばされそうになった。川の土手に上がるとキノコ雲がゴロゴロと湧き上がっていくのが見えた。これは大きな爆弾が落ちたんじゃと……」
長谷部は1年時から学徒動員で高射砲や大砲をつくる日本製鋼所に修理工として働いていた。工場は電気不足のため、輪番制で月曜日が休みだった。それにより13歳の長谷部は九死に一生を得た。「その後、工場からは何の通知もない。戦争とは、そんなもんですよ。川べりにあった学校は校舎がペシャンコになっていた。どうにか残っていた2階部分から机や椅子を持ち出してきて、それからは青空教室。生き残ったもんだけでね……」
長谷部が爆弾の正体を知ったのは、投下から1カ月が経ってからだった。「ワタシら広島の人間は原爆のことをピカと言うんじゃけど、広島はこの先70年、いや75年経っても草木ははえん、と言われとりました。しかし、これが不思議なことに、しばらく経ったらはえてくるんじゃのう。鉄道が草木の種を運んでくるんです。ワタシは鉄道の脇にはえてくるたくましい草木を見て、野球をやろうと決心したんじゃ。ワタシらのような若いもんができること言うたら野球くらいで、それで人々を元気付けようと思ったんです。幸い、広島は昔から野球どころでしょう。広島第一中(現広島国泰寺高)、広島商、広陵……。本当は工業学校を出て土木屋になりたかったんじゃけど、それで目標が変わりました」
きょう9日は長崎に原爆が投下された日。そして15日は終戦記念日。この時期になると、先の大戦に関する報道の量が増える。それを「8月ジャーナリズム」と嘆いたり揶揄したりする向きもある。戦争報道の風物詩化というわけだ。
いや、その通りだと納得した上で、敢えて一言述べさせてもらえば、「風化」よりは「風物詩化」の方が、まだ救いがあるのではないか。生者が死者と向き合う鎮魂の8月である。
<この原稿は23年8月9日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>