「ひとに健康を、まちに元気を。」をコンセプトに、様々な活動を展開している明治安田生命保険相互会社とのタイアップ企画です。当コーナーでは、明治安田生命関連の活動レポートをお届け致します。

 

『スポーツにみるリーダーシップと地域振興』

 

 2023年8月29日、明治安田生命とタイトルパートナー契約を結ぶJリーグ、株式会社岐阜フットボールクラブ主催の「FC岐阜ビジネス交流会」が開催されました。当サイト編集長の二宮清純が招かれ、『スポーツにみるリーダーシップと地域振興』というテーマでお話した講演ダイジェスト版をお届け致します。

 

 サッカー日本代表にとって、2022年のワールドカップ・カタール大会は、ドイツ、スペインというワールドカップ優勝経験国に勝利し、決勝トーナメント進出を果たした価値ある大会となりました。

 

 森保一監督を私は「サッカー界の豊臣秀吉」と呼んでいます。長崎の無名高校の選手から代表に上り詰め、監督としても成功を収めた今太閤みたいな出世物語です。

 

 彼は実業団から誘いがなかったため、入団テストを受けてマツダに入りますが、高校生ながらに「僕を採用してください」と言ってのけ、当時のGMが子会社で採用したというエピソードがあります。

 

 当初はサンフレッチェ広島でも無名でしたが、当時の日本代表のハンス・オフト監督に見い出されて代表に抜擢されます。私がオフト氏に「なぜ彼を日本代表に選んだのですか」と聞いた時の答えです。

 

「エスティメーション(estimation)があった」。

 

 見積もる力、ゲームを読む力、予測する力が秀でている。状況に応じてプレーを使い分けることができると。黒子でもチームで1番大事な仕事をしていると。残念ながら“ドーハの悲劇”により、ワールドカップには行けませんでしたが、監督としてJ1で3回も優勝して、日本代表監督に就任しました。

 

  私が、日本のスポーツ界で1番尊敬する人物は川淵三郎さんです。スポーツによる地域振興に1番貢献された方です。スポーツ界は川淵さんの出現前と出現後で、風景ががらっと変わりました。

 

 80年代、日本代表の試合は平均観客動員数が300人から500人で、 民間の会社なら間違いなく倒産です。まだ若かった私は「誰がリーダーでもこの組織は無理。もうつぶれる」と思っていました。それは若気の至りです。リーダーが代わったら、組織は変わるのです。

 

 サッカーのプロ化は日本初の地域密着型のスポーツクラブ構想もありました。きっかけは1985年、ワールドカップ・メキシコ大会の最終予選を韓国と戦った試合で、国立競技場の日本代表戦が初めて満員になりました。でも勝てませんでした。この頃、韓国にほとんど勝っていません。日本はまだアマチュアでしたが、韓国は一足先にプロのKリーグを発足していました。日本もプロ化しないといけない、と機運が盛り上がり、1991年に川淵さんがJリーグの初代チェアマンになり、1992年にカップ戦が始まりました。

 

 川淵さんは地域密着の「Jリーグ百年構想」を打ち出し、100年かかっても自分たちは変わり続けるというメッセージをそこに込めました。「スポーツで幸せな国へ」という初の目的規定宣言も行いましたが、私はこれ以上のキャッチフレーズはないと思います。「スポーツで人を幸せにする」「この国をスポーツで幸せにする」という川淵さんの思いが込められていました。

 

 しかし、新しいことをやろうとすると必ず反対勢力、抵抗勢力が出現します。90年代の頭、サッカー協会のある幹部は、こう言いました。

 

「サッカーのプロ化?バカも休み休み言え。バブルもはじけ、どこの企業がサッカーに金を出すと思っているんだ。時期尚早だ、早過ぎる」。

 

 もう一人の幹部は、こう言いました。

「日本にはプロ野球がある。サッカーのプロ化で成功した例があるか?前例がないことをやって失敗したら、いったい誰が責任を取るんだ」。

 

 私は「時期尚早」「前例がない」という2つの言葉を耳にした瞬間、「ああ、これでプロ化は難しくなった」と思いました。

 

 その時、いきなり立ち上がったのが川淵さんでした。

「時期尚早と言う人間は100年たっても時期尚早と言う。前例がないと言う人間は200年たっても前例がないと言う」。

 

 もう、勝負ありです。ああ、リーダーとは最後の土壇場になったら覚悟と決意しかない。そう思いました

 

 もしJリーグが誕生していなかったら、日本代表が強くなることはありませんでした。プロ化以前、W杯は出場ゼロだったのに、プロ化後は7大会連続出場です。

 

 日本はスポーツ施設が非常に貧弱でしたが、電通総研の調べでは2002年ワールドカップの経済効果は3兆5000億円で、全国に立派なスタジアムができました。天然芝のグラウンドが増えたのも、旗振り役は川淵さんでした。

 

 2002年ワールドカップで日本のグラウンドが「なぜ土なんだ」「なぜ天然芝じゃないんだ」と海外の記者の間で話題になった。サッカーであれラグビーであれ、ゴルフであれ野球であれ、ボールゲームは芝の上でやるのが基本です。スポーツクラブを増やすには、まず天然芝のグラウンドありきだと言って推進した川淵さんの役割は本当に大きかった。日本のスポーツ環境は、ずいぶん変わりました。

 

 2019年、ラグビーのワールドカップで日本が初めてベスト8進出を決めた試合は、横浜の日産スタジアムで行われましたが、台風19号が来て試合は中止になるのではないかと言われながら、奇跡的にできました。その日、近くの鶴見川が氾濫しましたが、スタジアムは高床式で遊水地機能があり、あふれた水がそこに流れ込むようになっていました。そのおかげで地域一帯は水害を免れました。

 

 このようにスタジアムには避難所の役割もあります。通常、避難所となる体育館は硬い床で、そこで寝起きするのを見ると気の毒で、大変だろうと思います。実際、災害で直接亡くなるのではなく、避難所生活などで体調をこわす災害関連死の比率を低くすることが求められています。

 

 それを考えると、私は今後、スタジアムやアリーナをつくる時、スポーツの試合やコンサートを開催するだけでなく、減災・防災の施設としての必要性を訴えかけることで、理解が得られやすくなるのではないか。個人的には、そう考えています。


◎バックナンバーはこちらから