アントニオ猪木が世を去って丸1年がたった。まだ虚脱感を抱えたまま、日々を送っている者も少なくないのではないか。それくらいアントニオ猪木の存在感は大きかった。

 

 

 ところでプロレスの枠を飛び越え、一般の人々までもが猪木の名前を知るようになったきっかけは、1971年11月2日、東京・京王プラザホテルで挙げた女優・倍賞美津子との華燭の典である。

 

 有名人の結婚式には“地味婚”と“派手婚”の2つがあるようだが、猪木と倍賞のそれは“派手婚”の走りではなかったか。

 

 式の費用はなんと1億円。断っておくが52年前の1億円である。

 

 参考までに述べれば、現在、プロ野球界における最高給取りは東北楽天・田中将大の9億円。

 

 では52年前のプロ野球で、最も高い年俸をもらっていたのは誰か。巨人の長嶋茂雄で4560万円(推定)である。

 

 そんな中での1億円挙式である。世間が驚かないわけがない。私はまだ小学6年生だったが、ワイドショーの画面には、猪木の背丈よりも、はるかに高いウエディングケーキが映し出されていたことを、はっきりと覚えている。

 

 しかし、猪木の胸中には複雑な思いが、わだかまっていたようだ。

 

<週刊誌の見出しに「倍賞美津子とアントニオ猪木が結婚」と書かれていた。「アントニオ猪木と倍賞美津子」ではなかった。プロレスはやっぱりマイナーなんだな……と思ったのを覚えている。当時の倍賞美津子は、まだそれほどのスター女優ではなかったのだから。>(自著『猪木寛至自伝』新潮社)

 

 波乱万丈の生涯を送った猪木にとっても、1971年は特別な年だった。

 

 結婚式直後の年の12月、猪木は「会社乗っ取り」を謀った科で、日本プロレスを追放されてしまうのだ。

 

<幹部が湯水のように下らないことに浪費している金は、私たちが血と汗を流し、必死で稼いだ金である。>(同前)

 

 猪木には社長の芳の里をはじめとする幹部たちの放漫経営が許せなかったようだ。猪木はライバルのジャイアント馬場とも気脈を通じ、会社の正常化に向けて動き始めた。

 

 ところが、猪木によると選手の中から裏切り者が現れる。上田馬之助だ。上田は、猪木が警察官上がりの計理士を使って会社を乗っ取ろうとしていると幹部の遠藤幸吉に“密告”し、逆に猪木が追放されるはめになったのである。

 

 猪木が、後に黄金期を築き上げる新日本プロレスを設立するのは、年が明けた72年1月。追放は吉と出たのだ。

 

<この原稿は『週刊大衆』2023年9月18日号に掲載された原稿です>

 


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