第1133回 成果のため何かを犠牲にする必要ない

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 関東サッカーリーグ1部に所属する南葛SCの監督兼TDに就任した風間八宏は、ドイツでプレーしていた頃、現地での歯科治療でカルチャーショックを受けたことがある。

 

 そりゃ誰だって、痛いよりは痛くない方がいいに決まっている。しかし、大抵の日本人は「治療は痛いけど、治るなら我慢しよう」と考える。風間もそうだった。

 

 ところがドイツ人は、平気な顔をして、歯科医に注文する。「痛くなく治してくれよ」。歯科医が歯を治すのは当たり前。なぜ痛みという負担を、患者が引き受けなければならないのか。あけすけに言えば、そういうことである。

 

 そこで風間は気が付く。<誤解を恐れずに言えば、日本人はどうしても物事を「何かを達成するためには何かを犠牲にする必要がある」などと、別に考えがちです。サッカーに置き換えても同じではないでしょうか>(自著『伝わる技術』講談社現代新書)

 

 何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない――。こうした言説は、日本中にはびこっている。ひらたくいうと一得一失、トレードオフの思想である。

 

 ここで注目したい心理学用語がある。「コントラフリーローディング効果」。動物には、労せず報酬を得るよりも、犠牲を払って報酬を得ることの方を好む傾向が見られる。例えばネズミは餌を手に入れる場合、より困難な方を選ぶという。

 

 人間について言えば、脳科学者・池谷裕二の、次の説明がわかりやすい。<ある団体に所属するときに、希望すれば誰でも入会できる場合と、厳しい試練を経て仲間入りできる場合を設けます。すると、たとえ根拠のない無駄な儀式であっても何らかの入団基準があったほうが、入会後に、その団体への帰属感や愛着が強くなるのです>(講談社ブルーバックス2016年1月19日配信)

 

 もちろん以上は、日本人に限った話ではない。だが、この国の場合、少々アンシャンレジームの温存が過ぎるのではないだろうか。

 

 例えば劇団員の自殺に端を発してあぶり出された宝塚歌劇団の数々の時代錯誤。先輩が利用する阪急電車への一礼など、「根拠のない無駄な儀式」以外の何物でもない。部外者から見れば滑稽の極みだが、難関を突破して憧れの場所に辿り着いた彼女たちに、それを説いても無意味だ。選ばれし者たちの誇りの証でもあるからだ。「伝統」という言葉の前の思考停止は由々しき問題である。

 

 いつの時代も革命は周縁から起きる。南葛オーナー高橋陽一が描く『キャプテン翼』のコンセプトは「ボールはともだち」。昨年秋に会った際、風間は言った。「うまいは強い、楽しいから勝てる。それがサッカーのはずだが、まだどちらを優先すべき、といった議論がある。その過程で犠牲にするものは何もない」。こういうコーチがいることに救いを覚える。

 

<この原稿は23年11月22日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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