第260回 ドーハの悲劇から30年後の蹴球風景
日本列島全体がお通夜の会場と化した“ドーハの悲劇”から、この10月28日で、まる30年が経った。
日本にとって初めてのW杯となる94年米国大会出場にあと一歩と迫りながら、ラストワンプレーで涙を飲んだアジア地区最終予選、カタールでのイラク戦である。
日本は試合終了間際まで2対1とリードしていながら、ロスタイムに失点。その結果、勝ち点で韓国に並ばれ、得失点差によりW杯出場を逃したのだ。
日本サッカー史に深く刻まれた痛恨の記憶である。
今なお現役を続けるカズこと三浦知良は日本経済新聞(10月27日付)のコラムで<僕自身でいえば、あの日の「無」を乗り越えられたのかどうか分からぬまま、抱えながら、サッカーを続けている気もする>と述べている。
この試合、イラクの同点ゴールに結びつく、ショートコーナーからの浮き球のパスを見送ったのが、ピッチ上では最年少の25歳だったボランチの森保一である。
「僕自身、ゴール前で守りを固めていたら守れるかな、という思いはありました。僕も含め、皆の気持ちが受け身になっていた。あの時、僕が何か声をかけていれば……」
監督のハンス・オフトが「彼にはエスティメーション(ゲームの予測力)がある」と称えてやまなかった愛弟子の森保でも守りに入り、足が止まってしまったのだ。
ここを先途と、日本は粘り強く戦ったが、選手たちは肉体的にも精神的にもギリギリの状態に追い込まれていた。重圧を回避し、試練を乗り越えるだけの力が、当時はまだ不足していたのだ。
それから29年後のカタールW杯、決勝トーナメント進出をかけたスペイン戦で、森保ジャパンは同じような局面に立たされた。
日本は試合終了間際までスペインに2対1で勝っていたが、もし追いつかれ引き分けた場合、ドイツに勝ち点で並ばれ、得失点差で下回る――。悪夢のようなシナリオが潜んでいたのだ。
苦い記憶が、今もトラウマとして残る指揮官に「ドーハの悲劇のことは浮かんだか?」と問うと「残り1分ぐらいの時に」と言い、続けた。
「確かに攻められてはいたけど、選手たちの気持ちが受けにまわっていなかった。それを見ていて“時代は変わったな”と……」
日本サッカーは、ドーハの借りをドーハで返した。歴史は、こうやって編まれていく。サッカーにおける悲劇と歓喜は表裏一体である。
<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2023年11月28日号に掲載された原稿です>