12月15日で、力道山没後60年となる。古橋広之進、長嶋茂雄と並ぶ、戦後最大のスポーツヒーローの死は、未だに多くの謎に包まれている。

 

 東京・赤坂の高級クラブで暴力団員に腹部を刺されたのが12月8日の夜10時半頃。病院で応急処置を受け、その夜は自宅に帰った。警察沙汰にしたくない理由があったのだろう。

 

 痛みは引かず、病院に舞い戻り、1回目の手術を受けたのが未明の4時頃。同日午前に担当医師が記者会見。「刃物によって切断された腸の結合に成功。経過が順調であれば全治までに2週間」。

 

 ところが「経過」は「順調」に推移しなかった。当時、付け人をしていたアントニオ猪木の証言。<医者に禁じられていたのに、勝手に水を飲んだのも悪かったのだろう。一時は快方に向かっていた力道山の容態が、悪化し始めた>(自著『猪木寛至自伝』新潮社)

力道山は腸閉塞を起こしていた。15日、午後2時半に再手術。4時に終了し、輸血によって小康を得たが、<午後9時より急激にショックに陥り>(死亡診断書)9時50分、帰らぬ人となる。

 

 これが腹部を刺されてから死に至るまでの、大まかな顛末である。

 

 暴力団員に襲われる前日の7日、力道山は日本プロレスの最終戦で浜松にいた。翌8日は箱根でゴルフをする予定だった。ところが旧知の高砂親方(元横綱・前田山)から「会いたい」と連絡が入り、急遽東京に戻った。話の内容は「ハワイ巡業の相談に乗って欲しい」というものだった。

 

 力道山と高砂は8日の昼頃からウイスキーを飲み始めた。高級洋酒のジョニ黒だ。「アゴを呼べ」。宴席に声がかかったのは弟子の猪木である。実は力道山は猪木を力士にする計画を密かに温めていた。高砂は猪木の顔を見るなり、「うん、こいつはいい顔をしているな」と言った。

 

 後年、この時のことを猪木に聞くと、「正直言って力道山に対しては複雑な感情を持っていました」と語った。「靴べらで叩かれるなど、ひどい仕打ちをたくさん受けてきましたから。でも高砂さんが“こいつはいい顔をしている”といった時に、ふっと誇らしそうな表情を浮かべたんです。その時に、“この人の弟子でよかったな”と初めて思いました」

 

 猪木は先の自著で<このたった一度の出来事が、私には本当に救いになった。そして、その晩に力道山は刺されたのである>と述べている。

 

 還暦を過ぎた頃から、以下のことを強く感じるようになった。人生の大半は偶然に支配されている。換言すれば、偶然の合間を縫うように、手探りで進む作業を人生というのではないか――。

 

 もし力道山が一命を取り留めていれば、猪木は力士となり、もちろん、その道でも成功していたはずだが、私たちを魅了し続けた“燃える闘魂”は出現していなかった。ちなみに「闘魂」は力道山の座右の銘でもあった。

 

<この原稿は23年12月6日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから