第262回 力道山没後60年、今も残る謎
日本におけるプロレスの創始者とも言える力道山が世を去って、この12月15日で丸60年になる。享年39だった。
世を去る1週間前の8日、力道山は赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で暴力団員の村田勝志に腹部を刺された。奇妙なのは山王病院で応急処置を受けた後、赤坂の自宅に戻っていることだ。あまり表沙汰にしたくない理由があったのだろう。
当時、力道山の付け人をしていたアントニオ猪木によると、力道山は医者の言うことを聞かなかったようだ。
気に入らない医者を突き飛ばしたり、禁じられていたのに勝手に水を飲んでいた、と自著『猪木寛至自伝』(新潮社)で明かしている。
結局、2度手術を受けたものの、腹膜炎による腸閉塞は改善されず、穿孔性化膿性腹膜炎のため息を引き取った。夫人の田中敬子は<2度目の手術は納得がいきません。私は当時から医療ミスがあったんじゃないかと思っていました>(自著『夫・力道山の慟哭』双葉社)と医療事故を疑っているが、真相は藪の中だ。
力道山の秘書をしていた吉村義雄によると、当時は赤坂にあるもうひとつの高級クラブ「コパ・カバーナ」に行く予定だったという。
それが、なぜ、「ニュー・ラテンクォーター」に変更されたのか。
原因はGHQ(連合軍総司令部)の元副官で、プロ野球の2リーグ制導入などにも尽力したキャピー原田の次の一言だった。
「先生、今晩はもうずいぶんお酒も入ってるんだから、ここで帰りましょう」
吉村は「まずいな」と思った。なぜなら、<力道山はもともと他人に行動を指示されるのが嫌い>(自著『君は力道山を見たか』(飛鳥新社)ときているからだ。
「よし、コパはやめだ。吉村、ラテンを取ってくれ!」
運命の歯車が終局に向け、コトンと音を立てた瞬間だった。
<この原稿は『週刊大衆』2023年12月25日-2024年1月1日合併号に掲載された原稿です>