日本におけるプロレスの創始者とも言える力道山が世を去って、この12月15日で丸60年になる。享年39だった。

 

 

 世を去る1週間前の8日、力道山は赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で暴力団員の村田勝志に腹部を刺された。奇妙なのは山王病院で応急処置を受けた後、赤坂の自宅に戻っていることだ。あまり表沙汰にしたくない理由があったのだろう。

 

 当時、力道山の付け人をしていたアントニオ猪木によると、力道山は医者の言うことを聞かなかったようだ。

 

 気に入らない医者を突き飛ばしたり、禁じられていたのに勝手に水を飲んでいた、と自著『猪木寛至自伝』(新潮社)で明かしている。

 

 結局、2度手術を受けたものの、腹膜炎による腸閉塞は改善されず、穿孔性化膿性腹膜炎のため息を引き取った。夫人の田中敬子は<2度目の手術は納得がいきません。私は当時から医療ミスがあったんじゃないかと思っていました>(自著『夫・力道山の慟哭』双葉社)と医療事故を疑っているが、真相は藪の中だ。

 

 力道山の秘書をしていた吉村義雄によると、当時は赤坂にあるもうひとつの高級クラブ「コパ・カバーナ」に行く予定だったという。

 

 それが、なぜ、「ニュー・ラテンクォーター」に変更されたのか。

 

 原因はGHQ(連合軍総司令部)の元副官で、プロ野球の2リーグ制導入などにも尽力したキャピー原田の次の一言だった。

 

「先生、今晩はもうずいぶんお酒も入ってるんだから、ここで帰りましょう」

 

 吉村は「まずいな」と思った。なぜなら、<力道山はもともと他人に行動を指示されるのが嫌い>(自著『君は力道山を見たか』(飛鳥新社)ときているからだ。

 

「よし、コパはやめだ。吉村、ラテンを取ってくれ!」

 

 運命の歯車が終局に向け、コトンと音を立てた瞬間だった。

 

<この原稿は『週刊大衆』2023年12月25日-2024年1月1日合併号に掲載された原稿です>

 


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