第265回「いろんな国をサッカーを通して覗き込む」~楽山孝志Vol.18~

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 2010年、楽山孝志はトルコの海岸沿いの街、アンタルヤで合宿を張っていたロシアのナショナルフットボールリーグに所属するクラブの練習に参加することになった。ナショナルフットボールリーグは、プレミアリーグの下、2部リーグに相当する。

 

 最初の2つのクラブ、ルーチェエネルギア、スカエネルギアハバロフスクの印象は良くなかった。

 

「ともに本当にフィジカル系、中盤を省略し前線にロングボールを送る縦に速いサッカーでした。あそこで生き残るには、身体が大きくて強いか、足がとてつもなく速いか、ですね」

 

 ロシアの代理人からはどちらのクラブも数日間練習を見ると聞かされていた。

 

 ところが――。2つ目のクラブ(スカエネルギアハバロフスク)の練習参加の2日目だった。

 

「突然、新しい外国人選手が練習に来るから、今すぐ(宿舎である)ホテルから出てくれと言われたんです。慌てて(ロシア人の)代理人で電話をしましたが、繋がらない」

 

 二転三転した移籍話

 

 楽山はなんとか自力でホテルを見つけた。ようやく連絡がついた代理人にはこんなひどい扱いは我慢できない、もう帰ると怒りをぶつけた。すると代理人は、最後にもう1チームだけ練習参加しないかとなだめた。腹立ちは収まらなかったが、日本の家族と相談して3つ目のクラブの練習に参加することにした。

 

「そのクラブの監督は現役時代にロシア代表だったそうで、練習内容がこれまでのクラブと全く違っていた。しっかりパスを繋いで攻撃を組み立てるサッカーでした。技術の高い選手も多くいました。ぼく自身、3チーム目の練習参加ということでコンディションがあがっていました。練習試合では多くボールに絡む事ができ、1アシストと少し結果を残す事ができました」

 

 FCヒムキという1部のプレミアリーグから降格したばかりのクラブだった。監督のアレクサンドル・タルハノフはCSKAモスクワなどでプレー、UEFAカップにも出場経験があった。ヒムキは楽山との契約に前向きだった。しかし、最終的に金銭面で折り合わず、日本に戻ることになった。

 

 各リーグには移籍期間が定められている。欧州、アジアリーグの移籍期間が終わってしまったため、夏の移籍期間までコンディションを落とさないために母校である清水商業の練習に参加して身体を動かした。

 

「現在、Jリーグで活躍している風間八宏さんの2人の息子、風間宏希、風間宏矢や新井一耀たちがいました。練習参加して1カ月ほど経過した時、ある日突然自分はここで何をしているんだろうって思うようになったんです。クラブが決まらないとモチベーションを保つのが難しく、サッカーを辞めることも考えたほどでした。そこで、国外にこだわらず、国内でもチームを探して欲しいと日本の代理人に頼みました」

 

 すると、大分トリニータの監督である皇甫官(ファンボ・カン)がウイングバックを探しているという話が入った。大分は前年シーズン中に経営危機に陥り、主力選手を放出しており、選手層が薄かったのだ。約1週間の練習参加の後、大分側から契約の打診があった。そこで代理人が大分入りし、2人でトリニータのホームゲームを観戦した。試合を観ながら代理人がこう言った。

 

――楽、あのときのロシアの話がもし今来たらどうする?

 

 楽山は何を言っているのだと首を傾げながら、「間違いなく行きますよ」と軽い調子で答えた。彼は「分かった」と頷くと、これから大分の強化部長に断りを入れてくると腰を浮かせた。

 

「前日にヒムキからオファーが届いていたんです」

 

 秋から始まる新しいシーズンからの契約だった。

 

 2010年7月、楽山はFCヒムキに移籍した。ヒムキはモスクワの衛星都市の1つで人口25万人の街である。監督は、楽山がテストを受けたときにアシスタントコーチだったエフゲニー・ブシュマノフが昇格していた。ブシュマノフもまた選手時代にロシア代表の経験がある。

 

 ロシアについてすぐこの国で生活するのは簡単ではないと思い知らされた。

 

 しばらくはCSKAモスクワのスタジアムのすぐそばにあった寮に滞在することになっていた。

 

「最初に空港に着いてタクシーで(寮のある)スタジアムまで行ってくれというとかなりの金額を要求されました。いくつかの単語だけは覚えていたので、こんな金額払えないと言い張りました」

 

 練習でも戸惑いがあった。

 

「英語が通じないので、会話もできない。クラブに1人だけ英語ができる女性イリナがいただけ」

 

 ピッチ外での体験

 

 住居も自分で探さねばならなかった。ヒムキからの給料はまだ支給されていないため、自分の銀行口座から当座の現金を引き出そうとATMに行った。

 

「朝の10時ぐらいに行ったんです。時差の関係なのか、カードの制限にひっかかったのかは分からないんですが、とにかく現金を引き出すことができなかった」

 

 お金を下ろせなかったとクラブの女性に電話を入れながら寮に戻っていたときのことだ。時差ぼけもあったろう、楽山は携帯電話を地面に落としてしまった。その瞬間、口笛が聞こえた。そしてスキンベッドの大男が5人ほどさっと近寄ってきた。男たちは携帯電話を指差すと「モイ-ティリフォン」(俺の電話)と言った。

 

 楽山は意味が分からなかった。すると男は「ダイチェ-ディンギ」(金を出せ)と続けた。これは自分の携帯電話なので返して欲しいならば金を出せと言っているようだ。強盗だと楽山は思った。

 

 男の1人が楽山の襟首を掴もうとした。そのとき、近くにいた老女が「やめなさい」と大きな声を出した。その瞬間、楽山は手を振り払って走り出した。

 

「そこからクラブハウスまで1.2キロぐらいありましたかね。スプリントのダッシュです」

 

 彼らは屈強に見えるが足はそれほど速くないはずだと考えていたのだ。ただし、1人だけ細身の男が最後まで付いてきたのには閉口した。

 

 人間生きるか死ぬかになるとリミットは外れますね、生涯で一番速いダッシュだったと思いますと楽山は笑う。

 

 なんとか楽山はクラブハウスまで逃げ切ることができた。

 

 この話をロシア人の代理人にすると、アジア人を狙った強盗が多発しているのだと教えられた。

 

「入団時にも伝えたが、外出時には、ヒムキと書かれたジャージ、パーカーを着用した方が安全だと言われました」

 

 サッカークラブには政財界に顔の利く実力者が関わっている。そうした人間には手を出さないというのだ。パーカーはセンスがいいデザインとはいえないため、外出のときに着るのをためらっていたが、安全のためには仕方がなかった。こうしたことは来てみなければ分からない。

 

 サッカーは世界で最も愛されている競技であり、様々な国にリーグがある。幸いにして自分はプロ選手としての技量がある。それならば色んな国を、サッカーを通して覗き込むのも面白いと楽山は思った。外国に出るという自分の選択は正しかったのだ。

 

 2010年シーズン、FCヒムキで12試合に出場、翌2011年から2013年まで中国の深圳市足球倶楽部でプレーした。そして、2014年4月から中国の深圳で「TCF楽山サッカー塾」を主宰している。サッカーという競技は国境を軽々と越えることができる素晴らしいスポーツだということを子どもたちに伝えつづけている。

 

(このシリーズ終わり)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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