数年前、三浦知良と同じ時期にサンパウロに滞在したことがある。彼は永住権が切れないよう、2年に1度は必ずブラジルを訪れている。たまたまその訪問に重なった僕は、先にサンパウロを旅立つ彼を見送るためにいっしょの車で空港に向かうことになった。

(写真:キンゼ・ジャウーにて。カズの他、現バルセロナのエジミウソンもこのクラブ出身である)
 20世紀半ばに建てられた古い高層ビルが建ち並ぶサンパウロの市街地を出て、車はチエテ川沿いを走っていた。すると突然、彼は大きな声を挙げた。
「あっ、ここだ。ここが最初に僕がプロとしてプレーした場所だよ」
 彼が指さしたのは、ポルトゲーザの古いスタジアムだった。
「インタビューで急に話しくださいって言われても、なかなか話せないよね。こんなふうにしてその場所に来れば、話すことはたくさんあるんだけれど」
 誰にするでもない言い訳をすると、彼は笑った。

 ノンフィクションライターとして様々な人から話を聞いてきた。若手のサッカー選手というのは鬼門の一つである。彼らはほかの先達の選手と同じように名門の中学、高校をへてプロに入ってくる。彼らの人生は似通っており、せいぜい40分ぐらいで話が終わってしまうことが多い。語るに値する、乗り越えなければならない試練は、これから先のことなのだ。

 その点、三浦という選手は逆である。他の多くの選手とは生い立ちが異なる。
 彼は10代から20代初めにかけての時間をブラジルで費やした。彼の人生の破片が、ブラジルの各地に数えきらないほど散らばっている。その破片には苦いものも多い。それらを集めることは、未だに走り続ける、彼の生き方を理解することになるだろう。2005年の11月、僕は彼のブラジルでの足跡を辿る旅に出た――。

 ブラジルで最初のタイトル獲得

 三浦がブラジルに渡ったのは、1982年の12月のことだ。年が明けた83年1月にはジュベントスのジュベニール(16、17歳のカテゴリー)に入った。
 ジュベントスは1924年に設立された歴史のある総合スポーツクラブである。サンパウロの高級住宅地にある広大な敷地のなかには、サッカーのグラウンドの他に体育館、バスケットボールコートなどの設備の整った施設が点在している。
(写真:ジュベントスの体育館。ジュベントスは、えんじ色がチームカラー。横浜フリューゲルスに在籍したフリーキックの名手エドゥー(マランゴン)もここの下部組織で育った)

 現在アマチュアスポーツ部門のスーパーバイザーであるオズワルドが当時を振り返る。
「カズがここに来たのはまだ15歳とか16歳とかだった。ポルトガル語が全然分からなくてね。何を話しかけられても、“シン(はい)、シン”と頷いていたのでからかわれていたよ」

 オズワルドは当時、フットサルチームの監督を務めていた。三浦はサッカーの他、フットサルチームにも入った。オズワルドはフットサルのルールを教えることから始めた。
「他の選手が休みの土曜日にカズと通訳を呼んで教えたんだ。彼はすぐにフットサルでも力を発揮するようになった。非常にテクニックのある選手だった。カズの活躍で、チームはサンパウロ州のフットサル大会で優勝したんだ。決勝は確か6対2。彼にとってはブラジルで最初のタイトルだったよ」
 オズワルドは、その時の優勝記念写真を今も大切に持っている。
「僕も30歳ぐらいでまだ若くて、髪の毛も黒かった」

 86年2月に三浦はサントスFCとプロ契約を結ぶ。だが、当時のチームには後にブラジル代表主将となるドゥンガなどがおり、選手層は厚く、年若い三浦の入り込む隙はなかった。
 出場機会を求めて、三浦は西に向かった。

「五十回以上、ファールを受けた試合もあった」

 もう何時間も同じような風景が続いているだろうか。バスの窓の外には、牧草地やサトウキビ畑が広がっている。この国をバスで走っていると、広大な平野であることを実感する。
 サンパウロ州だけで日本と同じ面積を持つブラジルの移動手段は主にバスである。サンパウロのバハフンダのバスターミナルを出たのは朝の9時45分だった。街を出ると、バスは270号線を西へひたすら向った。

 昼食で30分の休憩を挟み、バスはさらに西に進んだ。テハ・ホッシャと呼ばれる肥沃な赤土が、舗装された道路の白線にこびりついているのを見ると、サンパウロから遠く離れつつあることが思い知らされる。
 バスは、サンパウロ州の西端にあるオウリーニョで多くの乗客を降ろし、州境を越えてパラナ州に入った。目的地のカンバラに着いたのは16時を過ぎていた。
 旅行ガイドのなかでも、最も地図が充実している『lonely planet』のブラジル篇で、パラナ州のページを開いても、地図にはカンバラの名前はない。バックパッカーが訪れることもない、何の特徴もない小さな田舎町である。

 カンバラのバスターミナル前には、一台のタクシーが客待ちをしていた。
 63歳の運転手、リジェイリーニョはこのカンバラで生まれ育ち、マツバラのサポーター、TOM(トルシーダ・オルガニザード・マツバラ)の一員だった。
「街にはタクシーが10台もないんだ。いろいろなサッカー選手を乗せた。中にはカズもいたな。あいつはドリブルが上手くてね、今のロビーニョみたいなものさ」
(写真:リジェイリーニョ。「マツバラのスタジアムは僕たちが作ったんだ。俺も芝を植えたんだ」)

 カズがいた時代はいい時代だった。リジェイリーニョは何度もそう呟いた。彼の運転で、僕たちは三浦がプレーしたクラブ、マツバラに向かうことにした。
 マツバラは、現在の会長マツバラスエオの父親が始めた。彼は岡山県出身の農業移民で、成功した日系移民の一人だった。大規模に綿栽培を行っていたので、マツバラの最初のマークには、綿の穂の絵が描かれていた。

 「今では綿をやめてしまったので、マークから外したんですよ」
 ブラジル生まれのスエオは、多くの日系人のようにポルトガル語の単語が混じるが、日本語を話すことができる。
 現在のマツバラは主に下部組織での育成、そしてパッセ・リブレと呼ばれる契約切れの選手を集めてベトナムなどに送り出すことが主な活動となっている。現在、トップチームは活動していない。
(写真:マツバラのクラブハウスにて。会長のマツバラスエオ氏。彼らの家族の名前が道につけられている。街の名士である)

 街の中心地に、当時監督をしていたパキットが住んでいた。
「とにかく良く練習をする選手だった。チームの練習が終わっても、一人で練習していた。ドリブルが上手でね。よく相手のチームから狙われていた」
 日本人はサッカーが下手だという先入観を当時はもたれていた。その日本人に目の前で技術を見せられて相手選手たちは苛立ち、カズを削ったのだという。
「僕の記憶では、50回以上ファールを受けていた試合もあった」

 87年6月に三浦はマツバラに加入し、パラナ、サンタ・カタリーナ、リオ・グランジ・ド・スールの三州で行われたカンピオナット・スールで優勝した。運転手のリジェイリーニョの言うようにマツバラの良き時代だった。
 パキットは、別れ際に強く抱きしめる仕草をして「カズに宜しく伝えてくれ」と親指を上にあげた。


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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