来月4月8日発売の新著『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』は取材と執筆に約4年間という時間を費やすことになった。

 

 フリューゲルスを調べはじめたのはちょっとしたきっかけだった。正直なところ、当初は“縁”は薄いと思い込んでいた。京都で生まれ、大学生のときから東京で暮らしていたぼくにとって横浜は近くて遠い街だったのだ。ところが、取材を進めるうちに、20年以上前からぼくはこの本を書くべく、フリューゲルスに引き寄せられていたのではないかという錯覚に陥った。

 

 フリューゲルスは1964年7月に設立された横浜市の中区スポーツ少年団を祖とする。

 

 64年10月に開催された東京オリンピック、オリンピックのサッカー競技の一部が三ツ沢球技場で行われた。サッカーを盛り上げるために、オリンピックの前後に、横浜では多くのサッカークラブが立ち上げられていた。中区スポーツ少年団はそのひとつだった。

 

 クラブ設立に尽力したのが、横浜蹴球協会の西海輝という男だった。

 

 西海は「横浜ゴール」というサッカー専門店も開いている。この店は、静岡にあるサッカーショップ『ゴール』の姉妹店である。静岡のゴールのオーナーである納谷宣雄の影響で西海は店を始めたのだ。納谷とは元日本代表、三浦知良の父である。

 

 昨年亡くなった納谷とぼくの付き合いは長く、『キングファーザー』(カンゼン)という単行本を書いている。納谷から故人となっていた西海のことを聞き、亡くなる2カ月程前にも電話で話をした。数年前から耳が遠くなっていたが、彼はすこぶる元気だった。だから、亡くなったという連絡をもらったとき、信じられない思いだった。

 

 栗本直という男

 

 ぼくは1997年から98年に掛けて、納谷が所有していたサンパウロのアパートを借りていた。当時、勤務していた出版社に無給ではあるが1年間程度の長期休暇制度があり、それを利用したのだ。サンパウロを拠点にバックパックを背負って、赤道直下から南極の手前まで、南米大陸の全ての国を回った。ブラジルはぼくにとって第2の母国とも言える存在になった。

 

 99年末に出版社を退社、独立した後の10年間、年1度程度の割合でブラジルを訪れている。フリューゲルスに所属していたエドゥー・マランゴン、ジーニョ、セザール・サンパイオなどにそのときに話を聞いている。その取材データが単行本で生きることになった。

 

 さらに――。

 

 中区スポーツ少年団は、FCゴールとなり、その後、全日空空輸の後ろ盾を得て、ヨコハマトライスター、全日空サッカークラブと名前を変えた。

 

 84年から2シーズン、全日空サッカークラブの監督を務めていた栗本直には、彼が住んでいる三重県で会うことになった。新幹線で名古屋駅まで行き、近鉄特急に乗り換えて名張駅に着いた。このとき、栗本はこの駅にある近畿大学工業高等専門学校のサッカー部監督を務めていた。七月の暑い日だった。タクシーに乗ると運転手は、ここは盆地なので夏は特に暑いんですよと申し訳なさそうな口調で言った。ここ数日、35度を超えているという。

 

 栗本は伊賀市の柘植で生まれた。滋賀県との県境に近い小さな街である。ぼくの叔父が県境を越えた甲賀郡土山町で開業医をしていましたと言うと「土山はすぐだよ」と驚いた顔をした。

 

 栗本がサッカーを始めたのは中学生のときだ。上野工業高校2年生のときにフォワードからゴールキーパーに転向した。高校卒業後は、湯浅電池に入社した。湯浅電池サッカー部は、住友金属工業蹴球団(現・鹿島アントラーズ)、田辺製薬サッカー部などと並ぶ関西地区の強豪だった。その後、高いレベルでサッカーをするために70年1月に藤和不動産に移った。

 

 藤和不動産サッカー部は、欧州や南米型のサッカークラブを目指して那須高原の藤和那須リゾート内に施設を建設、東洋工業(現・サンフレッチェ広島)の石井義信をコーチ兼選手として招聘していた。栗本は石井から誘われたのだ。

 

 藤和不動産サッカー部は関東リーグを勝ち抜き、72年に日本リーグに昇格している。

 

 75年からサッカー部は親会社であるフジタ工業の管轄となった。このフジタ工業サッカー部は77年に天皇杯初優勝、日本リーグ初優勝を達成。栗本は79年シーズンを最後に引退している。

 

 フジタ工業サッカー部とペルー

 

「一時期、ぼくは選手、コーチ、マネージャーの全部をやっていたんです。(サッカー部の)帳簿をつけて、どれぐらいお金が掛かるか計算して、経理に行ってお金をもらう。寮でどれだけ(食事の)お米が必要なのかを含めて、全部頭に入っていましたよ」

 

 そして、ペルーの選手も獲りにいったことあるなと言った。ぼくは思わず「ペルーですか?」と聞き返した。

 

 日本サッカーの草創期を支えたのは、ネルソン吉村、ジョージ与那城などの日系ブラジル人である。フジタも72年からセルジオ越後が加入している。

 

 なぜペルーだったのか――。

 

「フジタはペルーに代理店があったんです。選手を獲るために、2、3週間行ったかな。そのときに世話を焼いてくれたのが、ホセハマグチという人だった。ホセの家に行ってご飯食べたり、ゴルフしたり。人質事件あったでしょ。人質が解放されたとき、ホセが(当時、大統領のアルベルト・)フジモリさんの隣りでテレビに映っていた」

 

 フジタを辞めてから付き合いはなかったけど、久しぶりのホセを見てびっくりしたよと笑った。

 

 96年12月にペルーの首都リマで起きた、左翼ゲリラ『MRTA』による日本大使公邸占拠事件である――。

 

 ぼくは『週刊ポスト』の特派員としてこの事件を現地で取材していた。それを伝えるとええっと栗本は驚いた顔をした。

 

 「ホルヘ・ヒラノを知っているか」

 

 それでペルーで選手とは契約したんですか、とぼくが訊ねると、もちろんと栗本は頷いた。

 

「ホルヘ・ヒラノとか。彼は凄い足の速い選手で、後にペルー代表になったんだよ」

 

 ホルヘ・ヒラノ――。

 

 その名前を聞いて、ぼくは大使公邸占拠事件でリマに滞在していたときのことを思い出した。

 

 取材の休みの日、ぼくはペルーで最も人気のあるサッカークラブ、アリアンサ・リマの試合を観に行った。アリアンサ・リマのスタジアムは逃亡中の日本赤軍が潜伏しているという噂もある貧民街の中にあった。観客席は小便とマリファナの匂いが立ちこめていた。そこで「お前、日本人か」と聞かれ、そうだと答えると「ホルヘ・ヒラノ知っているか」と訊ねられた。一度ではない、何度も、だ。

 

 ホルヘ・ヒラノは南米の国別対抗戦であるコパ・アメリカに出場した唯一の日系人だったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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