「あなたはもういらない」
人間、こういわれるほど辛く悲しいことはない。
自らの存在が否定されるばかりでなく、居場所すら失われるのだ。
「あのときは心も体もボロボロでした」
苦い記憶を噛み殺すように竹下佳江は言った。
7年前の6月、女子バレー日本代表はシドニー五輪出場を逃した。女子バレーが五輪の正式競技になって以降、日本は不参加のモスクワ五輪を除き、それまで8大会連続出場を果たしていた。64年東京五輪、76年モントリオール五輪では金メダルに輝いた。84年ロス五輪では銅メダルを獲得した。
女子バレーは、いわば日本のお家芸であり、晴れの舞台は五輪のコートを措いて他にはなかった。
その命脈が絶たれてしまったのだ。伝統は汚され、女子バレーの威信は地に堕ちた。
戦犯は誰か――。真っ先に名指しされたのが159cmのセッター・竹下佳江だった。
「あの身長では世界とは戦えない」
バレーボールにおける最大のアドバンテージは高さである。実際にコートに立ってみるとわかるが、224cmのネットが与える威圧感は決して小さなものではない。
セッターといえども、近年は大型化が目立つ。ロシアのアクロワは180cm、中国の馮坤は183cmもある。
ロス五輪銅メダルの立役者・中田久美も176cmの長身だった。しかも彼女にはサウスポーというアドバンテージがあった。
高い打点でトスを上げることができれば、攻撃はよりスピーディーなものとなる。反対に低い位置から上がるトスを待っていたのではスパイカーは仕事にならない。相手はその間に、しっかりと守りを固めてくるだろう。必然的にブロックされる可能性も高くなる。
背の低いセッターは相手からも狙われやすい。背の低いセッター一人をブロックで跳ばせるのは攻撃のイロハのイ。強いチームは敵の傷口にシオをすり込むように攻めてくる。
自らの存在を否定された竹下佳江は、一時期、人間不信に陥った。言い返したいことは山ほどあった。だが、シドニー五輪予選敗退という現実の前では、どんなに理にかなった説明も単なる言い訳に過ぎない。
それならばと竹下は口をつぐんだ。やがて所属していたNECを辞め、生まれ故郷の北九州に帰った。
「バレーのことはもう考えたくない」
傷心の竹下は生まれ故郷でショッピングをしたりビーチバレーなどをして過ごした。
竹下の回想――。
「あの時は本当に苦しかった。“世界では必要のない選手”と見なされたわけですから。自分は本当にバレーが好きで、高校を卒業してすぐに企業に入り、休む間もなくやってきた。自分が生きていく場所を探し続けてきました。自分でもよく頑張ってきたと思います。
それだけに『好きなだけじゃダメなのか』と考えることが本当に辛かった。バレーは嫌いじゃないけど、もう自分は無理なんだなと。そりゃ、辛かったですよ、苦しかったですよ。でも自分には居場所がなかったんです」
竹下は小学2年生でバレーボールを始めた。中学3年で今の身長(159cm)に達した。高校レベルまでならともかく、実業団、さらには日本代表入りを目指すとなれば、この身長では苦しい。
何とかして背が伸びないものか。
「たとえば週刊誌の裏に“背が伸びるよ”みたいな広告が載っているでしょう。それを見つけては取り寄せたりしました。
中身といっても、体操をして体が柔軟になれば背が伸びるよ、といった程度のものですが、一応やりましたよ。『これで伸びたら、自分はどれだけすごくなるんだろう』なんて思いながら。でも、すぐにやめちゃいましたね。効果もなかった。自分ではもうちょっと伸びると期待していたんですが、中3で止まっちゃいましたね」
――朝起きたら身長が10cm伸びていた、なんて夢を見たことは?
「さすがに夢を見たことはありません。でも自分の身長があと10cm高かったら、どれだけブロックを止められるんだろうとかはよく考えました。
でも逆にこれだけ動けていたかなァと思うこともあります。もしあと10cm高かったら、今のようにバレーボールのことを真剣に考えず、のほほんとやっていたかもしれない。むしろ、そちらの方が恐ろしいですね」
捨てる神あれば、拾う神あり。
故郷にいた竹下のもとに一本の電話がかかってきた。V1リーグ、JTマーヴェラスの一柳昇監督(当時)からだった。
「ぜひお会いしたい」
一柳は部長をともなって北九州にまでやってきた。
「あなたは必要な選手だ」
開口一番、一柳はそう言った。
傷ついた心の歯車がカタンと音を立てた。
しかし、歯車が動き出すには、まだ時間が必要だった。竹下の傷ついた心は、まだ完全に癒えていなかった。
「やりたくありません」
せっかくの誘いを、にべもなく断った。
それに懲りることなく、一柳は何度も何度も北九州に足を運んだ。
氷が溶けるように、徐々にではあるが、心が癒されていくのがわかった。
「お世話になります」
一柳が入団の快諾を得たのは、初めて竹下のもとを訪れてから約3ヶ月後のことだった。
(後編につづく)
<この原稿は2007年12月号『Number PLUS』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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