「永井さんと星野さんがいなければリーグ優勝はできなかったんです。もし、ここで打たれたとしても、誰も文句は言いませんよ」
 日本シリーズが始まる前、福岡ダイエーホークスのキャッチャー城島健司は3戦目、4戦目の先発が決まっていた永井智浩と星野順治にやさしい顔でそう告げた。
 入団こそ城島が先だが、年齢にして永井は1つ、星野は2つ年上である。プロ野球の世界において、年齢の差は上下関係を決める、いわば物差しのようなものである。
 しかし「グラウンドに出れば年の差なんて関係ない。必要と思えば強いことを言う時もある」という城島にとって、先輩ピッチャーへの叱咤激励は当たり前の行為であり、日本シリーズにおいてもマウンド上で機関銃のように“アメとムチ”を言葉巧みに繰り出した。

 3戦目、先発のマウンドに立った永井は6回をノーヒット(3四球)におさえる好投を演じた。インコースをぐいぐい攻め、初回に四球が続いても「気にすることはない」と笑みを絶やさなかった。
 4戦目は星野が大仕事をやってのけた。6回3分の1を3安打無失点。「星野さん、工藤さんも言っているようにオープン戦の気持ちでやりましょう」とポーンとお尻を叩いてマウンドに送り出すその姿には貫禄すら感じられた。

 終わってみれば4勝1敗。初戦の工藤公康の完封劇がすべてのように映った。要注意のレッテルをはっていたのは関川浩一とレオ・ゴメスのふたりだが、関川にはファウルしたコースで狙い球を見抜くという熟達の観察眼を発揮して勢いをとめ、ゴメスには徹底したファストボールでの内角攻めで弱点を浮き彫りにした。

「さすが工藤さんです。芸術的なピッチングでした」
 日本一の美酒に濡れた城島は大先輩に最大級の讃辞をおくり、テレビカメラが自分に向けられていることに気づくや、憎たらしいばかりの配慮を示した。
「でも3戦目の永井さん、4戦目の星野さんも素晴らしかったですよ。篠原さんもぺトラザも・・・・・・。ウチのピッチャーは日本一ですよ」

 開花から結実へ――。
 5年前、工藤のカーブをミットの網に引っかけることもできなかった素人同然のキャッチャーは2年前、眠っていた資質を一気に開花させ、今年、ついに大輪の花を咲かせた。
 知られていないことだが、城島の成長を語る上で、さけて通ることのできない人物がふたりいる。
 若菜嘉晴バッテリーコーチ、46歳。
 山村善則打撃コーチ、44歳。
 このふたりの証言をまじえながら、成長の軌跡をたどることにしよう。

「余程、工藤と武田一浩(現ドラゴンズ)に厳しく言われたことが悔しかったんでしょうね。最初の頃、アイツ、ベンチに戻ってくるとボロボロに泣いているんです。それを見た時“コイツはものになるな”と思いましたよ」
 若菜が言う「最初の頃」とは3年目のシーズンが始まったばかりの頃のことだ。

 城島健司は95年、大分の別府大付属高校からドラフト1位で入団した。当初は駒沢大学への進学が内定していながら、根本陸夫球団社長(故人、当時の肩書きは取締役専務)が強引に口説き落としたという経緯がある。
 入団1年目はわずか12試合に出場したのみで、2本のヒットを放つことしかできなかった。マスクを被らせれば、先述したように工藤のカーブにミットを合わせることすらできなかった。

 2年目のシーズンは17試合の出場ながら、打率2割4分1厘をマークした。ホームランも4本放った。ウエスタンリーグでは新記録の25本塁打をマークした。
 キャッチャーとしての腕前も、徐々にではあるが上達した。工藤のカーブをミットの芯で捕れるようになった。しかしベテランの田村藤夫あたりと比べるとキャッチング技術にはおとなと子供ほどの差があった。リードについても同様である。

 そして迎えた3年目のシーズン、王貞治監督は城島を主戦捕手として起用する方針を打ち出した。これにはベテランピッチャーから強い反発が出た。自分たちの勝ち星を減らすようなチーム方針には到底納得できない、というわけである。
「オマエは城島を一人前にしろ!」
 王貞治はバッテリーコーチの若菜に命令した。有無を言わさない強い口調だった。

 若菜が最初にしたことはベテランの田村と川越透への“詫び”だった。
「スマン!悪いけどオレはオマエたちに構ってる時間がないんや。これからは城島につきっきりになるけど、どうか勘弁してくれ」

 若菜はまずスローイングの矯正に乗り出した。下半身の使い方が下手で、上半身の力に頼った投げ方をしていた。
「このままやっていたら、いずれ肩を傷めてしまう。10年できるところが7年で終わってしまいかねない・・・・・・」
 城島の将来に不安を感じた若菜はカゴを2つか3つ用意し、左ヒザをつき、ヒジを上げたままの状態でネットに向けて投げ返す練習を毎日200球から300球、繰り返させた。コントロールが定まるのを見計らって、2m、3m、4m・・・・・・と徐々に距離を伸ばしていった。

 振り返って城島は語る。
「僕は肩に自信があったものだから、つい引っかけるような投げ方になってしまうクセがあった。シュート回転してもいいからパンと押し出すように投げないといけないんです。いやむしろ、シュート回転の方が(セカンドベースに入る)ショートはとりやすいかもしれない。反対側にきたらランナーと交錯してしまいますから・・・・・・」
 リードについては、これは配球を組み立てる以前のレベルにあった。若菜は「考える前に、まず感じることが大事だ」と城島に説いた。では、そのために何をなすべきか・・・・・・。

「オマエ、練習は何もグラウンドの中だけで行うものじゃないんだ。街の中にだってヒントはいっぱい落ちているんだよ」
 息子に人生を諭すような口調で若菜は言い、こう続けた。
「たとえば女の人が信号待ちをしているとするだろう。どっちへ曲がるか、じっと観察していればわかるんだ。たとえば右に曲がろうとする人は、必ず右足に重心が乗っていくよ。左ならその逆だ」
「若菜さん、それでもわからない時は?」

「なあ、ジョー、女の人っていうのはな、小ぎれいにしている人は大体、洋服屋さんに入るよ。ちょっと太った人だったら、間違いなく興味を示すのは食べ物屋さんだ。
 これは野球にだって当てはまるんだよ。常にピッチャーがどういう気持ちでいるか、あるいはこのピッチャーがどんな性格なのか。それを考えた上でサインを出すのがキャッチャーの仕事なんだ。
 ジョー、ひとつだけ覚えておいてくれ。これからはオマエの指一本(のサイン)で、ピッチャーが幸せになったり、不幸になったりするんだ。キャッチャーの仕事とはそれほど大切なものなんだよ」

 若菜にキャッチャーとしての心構えを教えられた城島は、その日以来、街角に立っては女性の行方を目で追うようになっていた。中州の雑踏で、あるいは天神の交差点で城島の路上観察トレーニングが始まった。

(後編につづく)

<この原稿は1999年12月『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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