ホルヘ・ヒラノの祖父、熊本県生まれの平野佐次郎が、ペルー南部、サン・ビセンテ・デ・カニェテの地を踏んだのは第一次世界大戦が終わりに差し掛かっていた1918年のことだ。

 

 カニェテ州の州都、カニェテは首都ペルーから144キロの場所に位置する温暖で静かな田舎町である。しかし、かつては違った。

 

 日本からの最初の移民船、1899年に到着した『佐倉丸』に乗った787人のうち、カニェテ耕地に296人の日本人が割り当てられている。

 

 移民に用意されていたのはサトウキビの葉に泥をこねて作られた粗末な住居。土間に枯れ草を敷き、眠った。粗末な食事、泥水を漉した水で喉の渇きを癒やした。欧州大陸に祖を持つ農場主たちは、動物を扱うように鞭を振るった。奴隷扱いである。ほとんど賃金も支払われなかった。

 

 日本で聞いてきた条件とは全く違うと彼らは歯ぎしりしたことだろう。さらにマラリアが彼らを追い詰めた。入植1年以内に約半数の143人が亡くなったという記録が残っている。

 

 農園からリマに逃げ出した移民もいた。彼らは日本人らしい手先の器用さを生かして理髪店を始めた。第一次世界大戦の直前、リマ市内には日本人移民の理髪店は75店あった。これはペルー人経営の30店を大きく凌ぐ。さらに日本人経営の日用雑貨店も20店もあった。

 

 佐次郎がカニェテ耕地に入ったのは、日本人移民たちがペルーという地に根を張りつつあった時期だった。

 

 近所の子どもたちとチーム結成

 

 ホルヘ・ヒラノは祖父から移民直後の話を聞いたことはない。

「当時はみんな農業移民としてチャクラで働いていたはず」

 

 チャクラ(chacra)とはラテンアメリカのスペイン語で農園、牧場を意味する。

 

 そして、ペルーの農業の転換期でもあった。重労働が不可欠なサトウキビ耕作から人をそれほど必要としない綿花栽培へと比重が移りつつあった。

 

 1923年に日本人の「契約移民」が終了。移民は契約では「4年間」という期限つきだった。多くは、日本に帰国せずペルー永住を選んだ。初期の移民のほとんどは男性で、日本から「花嫁」「家族」を呼び寄せた。1924年の時点でペルー全土で3844戸の日本人世帯、2057軒の日本人経営の店舗が確認されている。

 

 日本人たちが南米大陸で根を広げて行く中で摩擦も生まれた。

 

 1929年、アメリカ株式市場が暴落し、世界恐慌が始まった。そのあおりを受けてペルーの経済も悪化、失業者が増えている。

 

 元々貧富の差が激しい社会で目をつけられるのは「異物」である。

 

 ペルーの地元紙では〈日本人警戒論〉が唱えられ、排日運動が起きた。そんな殺伐とした空気の中、1933年にヒラノの父、繁が生まれている。

 

 ヒラノによると平野家は、リマ市郊外のウワラル州のワチョを経て、トーレブランカに移り住んだという。トーレブランカは、太平洋側を走るパナメリカナ・ノルテハイウェイから内陸部に向かう道沿いの小さな村落だ。トーレブランカ――白い塔と名づけられたのは、白い貯水塔があったからだという。

 

 父はアマチュアサッカー選手だった

 

 ヒラノは1959年にこのトーレブランカで生まれた。ペルーはごく限られた一族たちがほとんどの農園を支配していた。父の繁はトーレブランカにあったそうした農園の経理を任されていた。

 

「僕の住んでいた家は農園の中にあって、目の前がサッカーグラウンドだった。物心ついたときから朝から晩までグラウンドにいた」

 

 八歳のとき、トーレブランカに住む子どもたちとチームを結成した。

「中心選手は、ぼくとチョロ(cholo)、ネグロ(アフリカ系)の3人だった。当時はこの組み合わせは非常に珍しかった」

 

 チョロとは中南米では白人と先住民族――インディオとの混血を意味する。

 

“チョロ”はFCバルセロナでプレーしたこともあるペルー人選手のウーゴ・ソティルとプレースタイルが似ており、「ソティル」という渾名がつけられた。

 

“ネグロ”はペルーで最も庶民から人気を集めるクラブ、アリアンサ・リマで左ウィングを任されていたブラジル人選手と同じ「ティリーサ」と呼ばれていた。

「日本人、日系人で有名なサッカー選手は誰もいなかった。だから、ぼくは“チーノ”」

 

 ヒラノはそう言って肩をすくめた。

 

 中南米では東アジアの人間を一括りにしてチーノ(中国人)と呼ぶ。後にペルーの大統領となるアルベルト・フジモリの愛称もチーノである。

 

「チョロ、ネグロ、チーノがいるちょっと変わったチームを倒してやろうと近隣からよく試合を申し込まれた。しかし、ぼくたちに誰も勝てなかった」

 

 ヒラノのポジションはセンターフォワード――。

「父がフォワードでプレーすると喜ぶんだ」

 

 父、繁もアマチュアのサッカー選手だった。

 

 そして俊足のフォワードがトーレブランカにいるという噂はプロチームの耳に届くことになる――。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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