日本代表チームのことを「ジャパン」と呼んだのはラグビーが最初ではなかったか。とりわけラグビーファンのみならず多くの国民に親しまれたのが「宿沢ジャパン」だ。

 代表監督に就任したばかりの宿沢広朗(故人)率いる代表チームは89年5月、強豪スコットランドを28対24で撃破し、「宿沢ジャパン」の勇名は一躍、全国に広まった。ラグビーW杯で日本代表はまだ1勝しかあげていないが、これも「宿沢ジャパン」(91年第2回W杯)の殊勲。

 一方サッカーで日本代表チームのことを「ジャパン」と形容するようになったのは92年3月に就任したハンス・オフト率いる「オフトジャパン」が最初だろう。前任者の横山謙三が率いていた時、日本代表を「横山ジャパン」とは呼ばなかった。そう呼んでいた人がいたとしても、ごく一部だろう。オフト以降は「加茂ジャパン」「トルシエジャパン」など「ジャパン」が当たり前になった。

 北京五輪でメダルなしに終わった野球は「ジャパン」の後発組である。84年、公開競技ながらロス五輪で日本代表は金メダルを獲ったが監督の名前を冠して「松永ジャパン」とは呼ばれなかった。当時は「全日本」と呼んでいた。プロ選手が含まれていなかったため、確かに「ジャパン」というイメージではなかった。00年のシドニー五輪で日本代表は初めてプロ選手がメンバー入りしたが、監督の大田垣耕造はアマの指導者。それもあって「大田垣ジャパン」とは呼ばれなかった。野球における「ジャパン」の第一号はアテネ五輪出場を目指して結成した「長嶋ジャパン」である。06年春の第1回WBCは「王ジャパン」、北京五輪は「星野ジャパン」だった。

 連覇を目指す来春の第2回WBCは誰が指揮を執るのか。つまり誰の名前がジャパンに冠せられるのか。

 五輪と違いWBCはイチロー、松坂大輔、岩村明憲、松井稼頭央、松井秀喜ら一線級のメジャーリーガーがメンバーの大半を占めることになるだろう。特に2回目の今回はそうだ。統率力のある指揮官より、実力も個性もある選手たちをフワリと包み込むサポート型の指揮官の方がチームをまとめ切れるのではないか。表に出るのは監督よりも選手。呼称は「イチロージャパン」でもいいと思う。それくらいのカリスマ性と求心力が今の彼にはある。

<この原稿は08年9月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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