師匠が見せた初めての涙。相撲に出会えて本当に良かった ~元尾車親方・中山浩一氏インタビュー~
怒涛のがぶり寄りでファンを沸かせた元大関・琴風。尾車親方となってからは相撲界の発展に寄与し、解説者としてもお茶の間に親しまれた。その波瀾万丈の相撲人生を当HP編集長・二宮清純とともに振り返る。
二宮清純: 5月に相撲協会を退職されたということですが、今日はあえて「親方」と呼ばせていただきます。そもそも相撲との出会いは、いつごろですか。
中山浩一: おやじが地元に来た大相撲巡業の手伝いをしていて、先代の琴櫻関と一緒に食事したのがきっかけでした。
二宮: もともと相撲に興味があったんでしょうか。
中山: 全くありません。身長こそ175cmくらいありましたが、100kgを超える肥満児で運動神経も悪かったので、相撲を取るなんて想像さえしませんでした。それで大阪に移り住んだ後、中学1年の3月に大阪場所があり、おやじに誘われて佐渡ヶ嶽部屋の稽古を見に行ったんです。みんなしごかれていて頭は砂だらけ。うめき声も聞こえて「こんなもの、人がやるもんじゃない」と思って、急いで部屋の外に出ました。
二宮: それがまた、どうして相撲の道へ?
中山: マロングラッセのせいですかね。
二宮: えっ!? お菓子のマロングラッセですか(笑)。
中山: そうです。大阪で稽古を見た後、帰りにお土産としてマロングラッセをもらいました。それで家に帰って1つ食べたら、もう甘くておいしくて。「お相撲さんになったらこんなうまいものが食べられるのか」と思いました。そして後日、琴櫻関からおやじに「息子さんを預けてもらえないか」と話があったみたいで、おやじが「東京へ行ってみないか」と……。
二宮: それで入門するために上京したわけですか。
中山: いえ、入門というより東京の中学校に通わせてもらうという感じです。マロングラッセのこともあったので、「まあ行ってみようかな」と軽い気持ちでした(笑)。
二宮: 上京してからはどのような生活を?
中山: 師匠(琴櫻)の家に住み込みで中学校に通いました。当初は玄関を掃除したり、犬の散歩をしたりしていましたが、ある時公園で「パンツ姿になってみろ」と言われて四股の踏み方やすり足を教えられ、「あれ、何かこれおかしいな」と(苦笑)。
二宮: 内弟子のような存在になっていたわけですね。
中山: そうです。でも、それが当時の佐渡ヶ嶽親方にバレて「内弟子は許さん」ということになり、上京2カ月で佐渡ヶ嶽部屋に入門しました。
二宮: 内弟子だったということで、兄弟子から相当いじめられたのでは?
中山: もうひどいもんです。それこそ今だったら犯罪なんじゃないかというものもありました。もっとも半世紀前の話で、今はそんなことはできませんが。
二宮: 逃げ出そうと思ったことは?
中山: しょっちゅうです。ただ、スマホも何もありませんから、東京駅から新幹線に乗って帰るとか、逃げ方も分からなかった。
二宮: 実家に電話したりはしなかったんですか。
中山: 公衆電話で使う10円玉がないので、兄弟子たちが飲み終えたジュースの空き瓶を駄菓子屋に持って行き、10円玉と交換して電話をかけました。ただ実家は遠いので、「母ちゃん実は……」と少し言葉に詰まっただけでガチャンと切れちゃう。それで親への不満がたまって、「俺が有名になって『スター千一夜』(テレビ番組)に呼ばれても、絶対にお前らの話なんかしないからな」と心に誓っていました(笑)。
二宮: 私も田舎から上京したので、10円玉の話は痛いほどよく分かります。でも、ご両親としてもどうしていいか分からなかったのでは?
中山: ええ。特に母親は、私のSOSは分かっていたようですが、どうすることもできずに泣いていたそうです。
二宮: 苦境を伝える手紙は書かなかったのでしょうか。
中山: 書きません。もし書いて返信が送られてくると、兄弟子が封筒の中を透かして見て、お金が入っていないか確認するんです。お金が入っていようものなら「こいつ、仕送りしてもらっているぞ」と、またいじめられるんです。
二宮: ちゃんこも、昔の新弟子はほとんど食べるものがなかったと聞きます。
中山: 具材はほとんど残ってなくて、冷飯にちゃんこの汁をかけて食べていました。
二宮: でも、それでは大きくなれないでしょう?
中山: これはよく講演でも話をするのですが、「モノの栄養」より「心の栄養」で、古くさいかもしれないけれど、「この野郎」「ちきしょう」という“思い”で腹を満たしていましたね。
二宮: そういう厳しい状況の中で、まだ中学生だった少年が勝ち残ったというのはすごいことです。何か自分の中でスイッチが入るような瞬間があったのでしょうか。
中山: 「人をいじめて何がおもしろいんだ」と思いながら、よくベランダで1人泣いていたのですが、ある時、「あいつら1回ぶん投げてからやめても遅くない」と思うようになったんです。そうすると稽古にも身が入り、だんだん結果も出るようになっていじめが減っていきました。兄弟子も土俵の上で勝てなくなると、いじめなくなるんです。
(詳しいインタビューは8月1日発売の『第三文明』2024年9月号をぜひご覧ください)
<中山浩一(なかやま・こういち)プロフィール>
1957年4月26日、三重県津市出身。71年、中学2年で上京して琴櫻の内弟子となり、やがて佐渡ヶ嶽部屋に所属。同年の7月場所で初土俵を踏む。75年11月場所で新十両昇進、77年1月場所で新入幕、78年1月場所で関脇に昇進。79年1月場所で左膝靭帯断裂の重傷を負い休場、長期入院を余儀なくされる。2場所休場後、7月場所に幕下30枚目で復帰。80年1月場所で再入幕し、5月場所で関脇に復帰。しかし、7月場所で左膝半月板損傷など複数の箇所を痛める大けがを負った。その後、手術・リハビリを経て11月場所で復帰。81年9月場所で初優勝、場所後に大関昇進を果たす。83年1月場所で2度目の優勝。85年11月場所3日目終了後に引退を発表。その後、年寄「尾車」を襲名し、尾車部屋を創設。豪風や嘉風などの関取を育てた。2012年の日本相撲協会の理事就任後は、巡業部長や事業部長を歴任し、相撲界の発展に尽力した。24年5月に日本相撲協会を退職。通算成績は87場所で561勝352敗102休。