第1162回 理念の先走りが招いた“セーヌ川の悲劇”

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 政治家が、派手なパフォーマンスに走る時は「その裏に何かある」と用心した方がいい。

 

 たとえば昔、カイワレ大根をむしゃむしゃと口にほおばった厚生大臣がいた。病原性大腸菌による食中毒が流行し、“犯人”扱いされたカイワレ大根の“無実”を証明するためのパフォーマンスだったが、あれには鼻白んだ。丁寧に科学的根拠を示して説明すればすんだ話ではなかったか。

 

 五輪が始まる前、パリのアンヌ・イダルゴ市長がセーヌ川に入り、少しばかり泳いでいる映像を観た時、「これはまずいのではないか」とトライアスロンに出場する選手のことが直感的に心配になった。

 

 アメリー・ウデアカステラ五輪相も、セーヌ川で泳いだ政治家のひとり。フジテレビのインタビューに「川の水は嫌な匂いは全くなく、少し不透明ですが、本当に良い感じです。むしろ甘いくらいでした」と答えていた。

 

 こうした政治家の一連のパフォーマンスについて、登山家の野口健は自身のXで、こう苦言を呈している。<パリ市長だったか、セーヌ川の水質は安全だとのパフォーマンスで川に入ったようですが、川の水をガブガブと飲んでみたのだろうか?>。全く同感である。

 

 開会式の舞台となったセーヌ川は、私も何度か河畔を歩いたことがあるが、フランスの歴史を感じることはできても、澱んだ水は月影すら映さない。だから100年間も遊泳禁止となっていたのだろう。

 

 少年時代のトラウマもある。夏休み、川で遊んでいると「破傷風にかかるぞ」と近所の人に、よく叱られた。傷口から破傷風菌が入ると、けいれんや呼吸障害を引き起こし、最悪の場合、死に至る。全身性破傷風の場合、致死率は10~20%。日本感染症学会は<世界で年間100万人が発症し、30万-50万人が死亡している>(2019年)と報告している。川の水は甘い? いや川を甘くみてはいけないのだ。

 

 悪い予感はよく当たる。7月31日のトライアスロン女子に出場したベルギーのクレア・ミシェルが体調不良を理由に、5日に行われた混合リレーを欠場した。病名は大腸菌による感染症と見られている。彼女以外にも体調を崩した選手が相次いでいる。いくら“鉄人”だからといって、アスリートは生身の人間、モルモットにしていいはずがない。

 

 今回、パリの組織委は「史上最も環境に優しい五輪」を標語のひとつに掲げている。「浄化されたセーヌ川」を、その象徴にしたかったようだが、当ては外れ、アスリートファーストならぬセーヌ川ファーストの前のめりの姿勢が浮き彫りになった。理念の先走りが招いた禍事と言えなくもない。

 

 ところでIOCは「スポーツと環境マニュアル」で<汚染された場所で行なうスポーツ>を厳しく戒めている。果たしてセーヌ川でのトライアスロンは適正だったのか。今後の検証を待ちたい。

 

<この原稿は24年8月7日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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