女子ビーチバレーで2度の五輪に出場し、日本の第一人者として活躍してきた佐伯美香選手が、このほど正式に第一線を退くことを表明した。「ビーチバレーで五輪の表彰台に立ちたい」。佐伯選手の強い思いに賛同して立ち上げられた日本初のプロビーチバレーチーム「ダイキヒメッツ」も引退に伴い、その活動に終止符を打つ。現役に区切りをつけた今の心境、ビーチバレーに対する思い、今後の夢――。砂浜でボールを追い続けた12年間をあらためて振り返ってもらった。
(写真:ダイキビーチバレーの歴史が『ダイキヒメッツ12年の歩み』として刊行された)
――インドアも含めれば20年にわたる現役生活、お疲れ様でした。
佐伯: 振り返ってみれば、あっという間でしたね。2度の五輪もありました。結婚、出産も経験しました。ビーチバレーに移っての12年間、1年の半分は大会に出場していましたから、立ち止まって後ろを振り返る余裕なんてなかったです。でも12年といえば、赤ちゃんが小学校を卒業する年数。そう言われてみると長いのかなという気がしています。

――ビーチバレーでの12年間でもっとも思い出に残っている出来事は?
佐伯: やはり2度の五輪(シドニー、北京)ですね。特にシドニー五輪の4位入賞は一番、印象に残っています。何よりビーチに転向して、最初の五輪で結果を残せたことは自信になりました。と、同時にメダルには一歩、届かなかった。世界との差、自身の課題を突きつけられた大会でもありました。

――そもそもビーチバレーに転向しようと思ったのはなぜですか?
佐伯: バレーボール代表として臨んだ96年のアトランタ五輪がきっかけです。実は当時、私には五輪や全日本へのこだわりがあまりありませんでした。どちらかというと所属のユニチカでのVリーグ優勝を第一の目標に置いていたかもしれません。ところが実際に出場した五輪本番は惨敗。悔しさだけが残りました。

――そこで「もう一度、五輪へ」との思いが出てきたと?
佐伯: はい。ただ、次に考えたのは「このままインドアで出られるのか」ということ。五輪の結果を受け、当時の日本代表は若返りを図っていました。これでは4年後に出場できる可能性は低いと感じたのです。そこで思いついたのが、夏場に遊びでやっていたビーチバレー。ちょうど、アトランタ五輪で正式種目になったこともあり、「これならいけるかも」と思い始めたんです。

――当時はまだビーチバレーの認知度は低かったはず。周囲の反応は?
佐伯: 「なんでビーチバレーなんかに行くのか?」という感じでしたね(笑)。ユニチカでは7年目で年齢も25歳。主力としてこれからチームを引っ張るべき立場だったので、チーム関係者、ファンはみんな驚いていました。私個人としては、転向が大きな決断になるという認識がなかったので、むしろビックリする人たちの反応にビックリしたくらいですよ(笑)。

――佐伯さんの思いに呼応するように、翌春、地元の愛媛に「ダイキヒメッツ」が誕生しました。
佐伯: このチームがなかったら五輪は夢のまた夢だったと思います。1年目からワールドツアーにも参戦させてもらい、貴重な経験を積むことができました。今から考えると世界とのレベル差がまったく違う中で、よく支えていただけたものだと感謝しています。
(写真:97年3月、チーム結成の記者会見)

――転向当初はインドアとの違いにとまどったそうですね。
佐伯: 最初はバレーと同じ感覚でできると思っていましたから、甘かったですね(笑)。まずは自然との戦いがありました。野外でボールが風に流されたり、砂に足をとられて思うようにジャンプできなかったり……。思いのほか、苦労しました。スタートの2年間は思うようなビーチバレーができず、「五輪を目指す」と宣言したのに、こんな内容で行けるのかなと不安でした。

――バレーボールとビーチバレーは似て非なるものだったと?
佐伯: 基本のレシーブやアタックは一緒でも試合となると発想の転換が求められました。たとえばインドアでは、とにかくコートに入ったボールはすべて拾うように教えられていました。でも、炎天下のビーチバレーで同じことをやったら、最後まで体が持たない。頑張っても届かないボールは捨てることが必要なんです。頭ではいくら分かっていても体が勝手に反応してしまうので、この切り替えは大変でした。
 トレーニングメニューもガラリ変えました。ユニチカ時代、練習休みは月に1回程度。練習、練習の毎日でした。ビーチバレーはハードな競技ですから、そんなにトレーニングをすると疲れてしまう。休みも練習のうちだと考えを改めました。

――佐伯さんが日本のビーチバレー界を引っ張ってきた12年の間に、随分、競技に対する注目度は上がってきました。メディアでは浅尾美和選手や菅山かおる選手などがアイドル並みの取り上げ方をされています。
佐伯: 次は彼女たちが世界で結果を出すことが求められるでしょうね。日本のビーチバレーはまだまだ根強い人気があるとは言えません。その時のブームだけで終わるようなら、競技を取り巻く環境は改善されないままでしょう。ぜひ、トップの選手たちには「ビーチバレーっておもしろいな」と思ってもらえるような試合をしてほしいです。そのためには、やはり結果がまず必要だと感じています。

――確かにビーチバレーが盛んな海外の地域では、海岸はもちろん川辺や街中でも楽しめるようになっています。その点、日本の環境は不完全と言えるかもしれません。
佐伯: ドイツは日本よりも決して気温が高くありませんが、ビーチバレーがメジャースポーツのひとつです。街中の広大な敷地に50面以上のコートがあれば、インドアのビーチバレー施設もある。世界を転戦して感じたことを、ビーチバレー発展のために生かすのは私の役割かなと感じています。

――普及や環境改善はもちろん、佐伯さんにはぜひ世界と戦える選手を育ててほしいという思いもあります。
佐伯: インドアでもビーチバレーでもトップレベルを経験した選手は、まだ日本にそういません。両方やった体験を踏まえて、お役に立てればという気持ちはあります。どちらもバレーボールの基本が大切なのは変わりませんし、お互いのいい部分を取り入れることでさらなるレベルアップをはかれると考えています。

――いい部分を取り入れるとは、具体的には?
佐伯: どちらかというと日本のインドアは監督の作戦にしたがって動いている場面が多い。もちろんそれは大切ですが、相手の動きを見ながら選手自身がコートの中で指示を出し合えれば、もっといいチームができるはずです。その点、ビーチバレーの場合、コートには2人しかいないため、1人1人が考えてプレーしなくてはいけません。ビーチバレーの要素をインドアにも組み込めば、日本のバレーボールもまだまだ向上の余地があるとみています。

――引退後もイベントやバレーボール教室など、積極的に活動されていますね。
佐伯: 最近は定期的に地元の高校の男子バレーボール部の指導も始めました。男子と女子の違いはもちろん、自分たちの高校時代との意識の違いにハッとさせられる日々です。私たちの時代は、とにかく監督に怒鳴られながらでも必死にボールにくらいついていました。ところが、今は頭ごなしに怒ると逆にヤル気を失ってしまう。精神面が時代とともに随分、変わってしまったなという印象を受けています。どうすれば彼らを納得させて練習できるか。毎日が勉強です。

――ズバリ、今後の夢を。
佐伯: ビーチバレーはやればやるほど奥が深いスポーツです。体力やテクニックのみならず、相手との駆け引きなど心理戦も求められる。このおもしろさをひとりでも多くの方に知ってもらいたいですね。そして、ビーチバレーをやりたいと思った人が誰でもできる環境を整備したい。ゆくゆくは指導者か何かの形で再び世界に、という気持ちもあります。ここまで長く選手として活動できたのも、みなさんのサポートのおかげ。これからは私なりのやり方で、ひとつひとつ恩返しをしていきたいと思っています。 

---------------------------
★質問、応援メッセージ大募集★
※質問・応援メッセージは、こちら>> art1524@ninomiyasports.com 「『DAIKI倶楽部』質問・応援メッセージ係宛」

---------------------------------
関連リンク>>(財)大亀スポーツ振興財団

(聞き手:石田洋之)
◎バックナンバーはこちらから