アジア大会100メートル準決勝の当日、伊東から小山に電話が入った。
「先生、スタートで出遅れないためにはどうすればいいでしょう」
 小山は答えた。
「スタートに意識をとられる必要はない。それよりもピックアップ(スタートしてからトップに入るまでの動作)の距離をあと2歩ばかり伸ばせないかなあ。そうすれば(9秒台が)出ると思うよ」
「いや、先生、ここはタータンがやわらかいから記録は出そうもありません」
「そんなことないさ。コーちゃんのようにフラットな着地ができる選手だけが、そこでは対応できるんだよ。今までやってきた走りを冷静にまとめれば、結果はついてくるはずだよ」
 10秒00が飛び出したのは、それから6時間後のことだった。再び伊東からの電話。
「先生、出ちゃいましたよ」
「おめでとう。ようやく目標(9秒台)に近づいたなあ」
 小山は自分でも驚くほど冷静だった。現在の伊東の実力をもってすれば、不思議でもなんでもない数字だったからである。それに手動の時計では、伊東はすでに何度か9秒台をマークしていた。
「まだこの先がありますから……」
 伊東も淡々としていた。
 出会ってから、ちょうど6年がたっていた。

 筋肉構造の改善とともに、伊東と小山のコンビは動作形態の見直しにも取り組んだ。
 小山に出会うまで、伊東はももを上げてツマ先立ちの走りをしていた。いわば「根幹部分」ではなく「末端部分」を駆使した走法だった。
 小山はこうアドバイスした。
「地面を蹴ってはならない。ツマ先で走るのではなく、土踏まずでフラットに地面をとらえなさい」
 言うまでもなく、100メートル走に最も求められるのは水平速度である。従来のももを高く上げて弾むような走りは、どちらかというと垂直運動であり、バランスと出力タイミングのロスにつながる。小山はこの点を簡潔に指摘したのである。かくして、ももを上げずフラットに地面をとらえる現在の伊東の走法が誕生した。欧米でもあまり例を見ない、発明品的な走法と言っていいだろう。
 伊東の走り方を見ていて思い出すのは、時代劇に出てくる忍者のそれである。「走る」というよりも、地面を「滑る」という感覚に近い。あるいは、川面での石切り。平べったい石を水平に投げると、力を込めなくてもスッスッと水面を滑っていく。
 そんな感想をむけると、伊東はこう答えた。
「忍者みたいな、という見方は間違ってないと思います。常に地面をフラットにとらえようと意識していますから。走りをイメージするときにモデルがいないわけではありません。中国・馬軍団の王軍霞です。彼女の走りがももを上げず、フラットに移行するものでした。ところが王は、シカをイメージして走ったらしいんですね。残念ながら僕は修学旅行先の奈良でしか、シカを見たことがないんですが(笑)」
 実は10秒00をマークしたレースも、伊東にとって完璧なものではなかった。80メートルを過ぎたあたりで走りに抑えがきかなくなり、ももが上がってしまったのだという。
「もう、これ以上走ってもダメだなと思いました。コントロールができなくなって……」
 残り20メートルのコントロールが、克服すべき課題として残ったのである。

 走法の改造に続いて取り組んだのが、接地の確定だった。走るという行為は、接地と離地の連続である。それをスムーズに、かつ迅速に行えれば、より速く走ることができる。
 小山は言う。
「接地は重心の真下で行うのが理想なんです。
 そして、右足と左足は別々の直線を踏むこと。以前は一直線走法といって、右足も左足も1本の同じ直線上を踏むのが理想とされていましたが、これでは腰が左右に振られ、体がねじれる。時間もロスするし、筋肉もダメージを受ける。二点着地による二直線走法が望ましいのです」
 着地は足の裏全体で行い、離地の瞬間、拇指球で地面を押す。その繰り返しが、前方への強い推進力に結びつくのである。
 そう言えば、かつての日本記録保持者、朝原宣治がこう言っていた。
「地面を“蹴る”のではなく、拇指球でトントンと“押す”感じ。いや“乗る”と言った方が適切でしょうか」
 では、伊東はどうか。
「表現するなら朝原と同じです。地面を叩いてるというか乗っているというか……。もっと細かく言うと、最初の何歩かは叩いているという感覚なんですけど、そこから先は乗っていくという感覚。そして最後は地面に足が着いている感じがしなくなりますね」
 伊東のスパイクは8本のピンによって支えられている。そのうち7本までは長さ5ミリだが、1本だけ8ミリのピンがある。
「拇指球の部分だけを(地面に)当てたいのです。それ以外は当てたくない。運道具メーカーのシューズ制作のコンセプトは“引っ掻く”なのだそうですが、僕はフラットな感覚で、ゴムのような反発があった方がいい。つまりメーカーのコンセプトとは逆の走り方をしているわけです」
 かすかに苦笑が混じった。

 ここまで書いてきて、ふと思う。小山も伊東も、これまでの陸上の常識、トレーニングの常識のほとんど逆をやったことになる。すなわち、これまで常識とされてきたことこそが誤認や迷信であり、その固定観念を打破したからこそ前代未聞の記録が出たとも言える。
 そう水を向けると、端正な表情に反骨の色をにじませながら小山は言った。
「これまで天動説を信じてきた人に、いきなり地動説を信じろといっても無理があるかもしれませんね」
 小山には忘れられない一言がある。
 スケート選手に同行して、ヨーロッパ遠征に出かけた時のことだ。あるヨーロッパのコーチが小山に言った。
「君は陸上の100メートルも研究しているのか。もし日本人、いや東洋人が君の理論で9秒台を出したら、君の理論とトレーニング法は、世界で一番進んだものを言えるだろう。いや、そう認めざるをえなくなるだろうな」
 言外に「日本人、東洋人に9秒台は無理」と軽侮するニュアンスが混じっていた。
 無理もない。伊東が10秒00をマークするまで、東洋人でそれ以上の記録をマークした者は皆無。白人にまで人種の枠を広げても、10秒00は84年にポーランドのM・ヴォロニンがマークした1度きり。つまり9秒台は黒人スプリンターたちの独壇場だったわけである。
 伊東と小山は、世界で最も強固な独占市場に、極東の身体能力に劣る民族が住む島国から殴り込みをかけようとしているのである。
「伊東が天才なら僕は狂人かな」
 小山が言えば、
「限界はまだ見えていません」
 と伊東が応じる。
 ともに視線はシドニーを見すえている。

<この原稿は1999年3月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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