残念ながら「野球王国」の称号は、そろそろ返上すべきかもしれない。甲子園での四国勢の戦いぶりを見ていて、そう思った。
 西条(愛媛)、高知は2回戦敗退。徳島北、寒川(香川)は初戦敗退。大会8日目にして、四国勢はすべて甲子園から姿を消してしまった。昔なら考えられなかったことである。
 今大会が始まるまでの夏の都道府県別勝率ランキング1位は愛媛(6割6分5厘)である。高知は6位、徳島は13位、香川は19位と過去の貯金のおかげで、未だに上位に名を連ねているものの、1970年代前半までは徳島を除く3県がベスト5に入っていた。かつて四国の人間には、ベスト8のうちの2つは四国の指定席だとの感覚があった。今ではひとつ残ればいいほうだ。02年に高知の明徳義塾が優勝し、04年に済美(愛媛)が準優勝したことで“底入れ”の兆しが見えたが、“二番底”が待っていた。今では、どこが出ても勝てそうな気がしない。

 人は未来に希望が持てなくなった時に、過去の栄光について語り始めるという。お国自慢に聞こえるかもしれないが、ほんの少しお付き合い願いたい。今は亡き千葉茂さんがよく語っていた。「日本に四国がなかったらプロ野球はここまで成長せんかった」。野球殿堂入りの、その顔ぶれからしてスゴイ。主たるところでは宮武三郎、景浦将、藤本定義、水原茂、三原脩、森茂雄、千葉茂、藤田元司、中西太…。中西さん以外は故人だが、四国出身の球界の英霊たちは草葉の陰で泣いているのではないか。四国の野球は今、いずこにありやと。
 70年代まで四国の野球は守りが中心だった。松山商しかり、高松商しかり、徳島商しかり。ところが74年に金属バットが導入されるとガラリと四国内の勢力図が塗り替わる。池田の台頭だ。筋トレで鍛え上げた腕っぷしが咆哮する“山びこ打線”は80年代の甲子園の風景をも一変させた。

 そんな四国の野球を手本としたのが帝京の前田三夫監督だ。80年のセンバツは好投手・伊東昭光を擁しながら、決勝で中西清起の高知商の軍門に下った。83年のセンバツ初戦では池田に0対11と粉砕された。
 しかし今、前田の口から「四国」の二文字は出てこない。もう学ぶものは何もないということなのか。寂しいが、それが現実だ。「野球王国・四国」は昭和の残照として記憶されるのか、それとも日はまた昇るのか…。

<この原稿は09年8月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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