広く知られていることだが、イチローは小学3年生から中学3年生までの7年間、ほぼ毎日、名古屋空港近くのバッティングセンターに通った。イチローによると1ゲーム25球、それを平均して5ゲーム行った。つまり、1日あたり125球のボールを打った計算になる。多い日には10ゲーム、つまり250球も打ち込んだ。これはプロ野球でいうところの“特打”に匹敵する球数である。
 特筆すべきは、小学3年生で120kmのボールを難なくジャストミートしていたという点。中学生になると特注したマシンのバネがはじき出す130kmの速球を、正規のバッターボックスから2〜3mも前に立って打ち返した。マシンとの距離は15〜16m。そこからまた2〜3も近寄れば、130kmのボールが140kmにも150kmにも感じられたことだろう。繰り返すが、それを完璧に打ちこなすイチローは、声変わりしたばかりの中学生である。
 新井宏昌打撃コーチは言う。
「アーム式はピュンと投げた後、ボールを拾ってくる。バッターはアームが上がってくるところからタイミングを取らなければならない。漠然と待っていたんでは、タイミングが遅れてしまう。イチローの間の取り方の良さは、子供の頃からアーム式に慣れ親しんだことにもあるのでしょう」
 それにしても、小学3年生の頃から、毎日120kmのボールを125球も見ていれば、「瞬間視能力」や「追跡視能力」はいやが上にも強化される。これは眼筋を鍛えることで得られる能力と考えてよく、強化の時間は早ければ早い方がいいとされている。
 ちなみに速いボールを見ることの大切さについては、王貞治が次のように述べている。
「僕は自分の“眼”を切り札にするために、人一倍の努力をした。練習では、ブルペンに行かなかったことはない。投球練習をする投手にことわり、バッターボックスに立たせてもらって、ボールを見る訓練をし続けた。いまの選手でブルペンに行くバッターがいないのは、本当に不可解である」

 専門家の立場から田村所長がビジョン・トレーニングの重要性をこう説明する。
「目には2種類の筋肉があります。ひとつは毛様体筋といって、網膜のピントを合わせる筋肉。もうひとつは外眼筋といって、目の方向性を定める。これは6本あります。この2種類の筋肉が作用することで、ボールの来る方向に正確に目を向け、ピントを合わせる能力が養われる。これは鍛えれば鍛えるほど向上する。体の筋肉と同様、目の筋肉にもパワーとスピードが必要なんです」
 それに関連して、米スポーツビジョンのコンサルタントであるレオン・レーヴィン博士は次のような報告を行っている。
「ビジョン・トレーニングを生かしていない選手の三振は1974年22.2%、75年は22.1%。これでは全く進歩が見られません。ところがビジョン・トレーニングを受けた選手では、1974年17.2%、75年にはわずか9%に減っている」(『トッププレイヤーの目』より)
  興味深いデータがある。これは静止視力とパフォーマンスの相関関係を数値に表したものだが、アーチェリーの場合、視力1.2で得られるパフォーマンスが100であるのに対し、0.7で99.1%、0.5で97.2%、0.3で97.6%、0.1で99.1%とほとんど差異は見られない。ところが野球の場合、視力1.2〜1.5で100のパフォーマンスが得られるのに対し、0.7で74.9%、0.5で36.9%、0.3では28.1%、0.1で3.6パーセントとガタ落ちの傾向を示すのである。
 この結果を受けて、調査元のスポーツビジョン研究室(遠藤室長)では「ボールのスピードが速く、しかもボールが小さいスポーツは1.2〜1.5まで矯正しないと最大のパフォーマンスは発揮できない」と結論づけている。

 もうひとつ忘れてならないのは、目の休養である。1日に10球から20球、140km台のボールを目で追うバッターは試合後、酷使の代償として目に疲労や乾きを覚える。放置したり不摂生を続けると、後に視力の低下を招きかねない。
 張本勲は現役時代、決まって試合後、目がほてるのを感じた。疲労の激しいデイゲームの後は、氷を目の上に乗せてほてりを鎮めた。ナイトゲームの後も冷たいシャワーの水で目をひたすことだけは忘れなかった。
 不振に陥ると眠れない日々が続いた。それでは目に悪いと思い、張本は無理やり目をつぶり、閉じたまぶたの裏側で打撃のシミュレーションを行った。まぶたをスクリーンにして繰り広げられる試行錯誤は明け方にまで及ぶことも珍しくなかった。
 荒ぶった声で張本は言った。
「眠らんと体に悪いのに眠れん。しかし、目だけは閉じてないといけない。ワシはもう1度生まれ変わっても、野球選手にだけはなりたいと思わんね」
 昼間、外出する時、イチローは久志の長い帽子を目深にかぶる。太陽の直射日光を浴びないようにするためだ。
 イチローいわく、パッパッと照りつけるような日射しや照明の光は、目に疲れを生じせしめるのだという。試合後は涙こそ出ないものの、目がしょぼついたり乾いたりで、しばしば目薬のお世話になる。体の筋肉同様、眼筋にもウォーミング・アップとクールダウンが必要なのである。

「脳をコンピューターの本体と考えるならば目は入力回路。手と足の動きは出力回路。いくら出力回路を鍛えあげたところで、入力の段階で間違ったものをインプットしてしまえば、努力は報われない」
 日本体育協会公認スポーツドクターであり、スポーツビジョン研究会の代表である真下一策氏は、そのような表現で視覚機能の重要性を訴えかける。真下氏が指摘するように、現在の日本球界は、あまりにも“出力回路”のトレーニングに偏りすぎてはいないだろうか。イチローが示したいくつかのデータの中にこそ、スーパースターを育てるヒントが隠されている。

<この原稿は『Number』(文藝春秋)1995年7月20日号に掲載されたものです>
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